安倍新政権は多極化の波を乗り越えられるか(5) 〜執拗低音に支えられた美しい日本の響き〜


安倍政権における最悪のシナリオは、日本の右化傾向が強まり北朝鮮との戦争に突入することでしょう。
これは単なる戦争の是非を超えて、今後の日本の世界における立ち位置にすら関わってくる大問題です。

現在イラク占領の泥沼化を通じてその覇権を失墜させつつあるアメリカに、日本を全面的にバックアップする余裕は無いと考えるのが妥当です。
そうすると、日本はイスラエルと同じ運命、すなわちアメリカに見捨てられ新しい勢力構図(中国中心のアジア)の中で衰退の一途をたどる、という道を歩むことになりかねません。

最終回の今回、いよいよ安倍新政権がこれから世界の多極化に対してどう対応すべきか、という点について考えていきたいと思います。

考えるべき問題は、多極化の波が不可避なものとなりアジアにおいて中国を中心としたひとつの極が形成されるとき、日本は対米従属構造をあきらめて新しい状況に対応すべきかどうか、ということです。

これまで日米同盟によって日本の地位が守られてきたことを考えると、この新しい状況への対応は一種の賭けであるかのようにも思えます。

本当に日本は新しい状況下で生きていけるのか、中国や韓国との関係を保ちつつ日本のアイデンティティを維持できるのか。
すなわち、アジアという大きな枠組みに飲み込まれることなくその独自性を表現していけるのか、という疑問が当然わいてきます。
極端に言えば、今後も小泉首相が行ってきたように中国・韓国の反日感情を煽る行動を繰り返し、日中・日韓の対立構造を利用しながらアジアから独立した立場を選ぶ方が正しいのではないか、という考えすら出てくるでしょう。

しかし、ここではあえて新しい政治構造の波をそのまま受け入れ、その中で柔軟に対応する方針を安倍新政権は選ぶべきであることを主張したいと思います。

以下、この主張の妥当性を日本文化の本来的な特性に注目して考察していきましょう。

まず、そもそも日本の文化がどのように形成されどのように発展してきたのかについて、日本思想史学の生みの親であり大家であった故丸山眞男氏の研究を引用します。

丸山氏は「執拗低音(バッソ・オスティナート)」という音楽用語を用いて、日本文化の特質を見事に表現しました。
執拗に繰り返される低音主題の上声部で、連続して様々な変奏が展開される古典的音楽形式のことを総称して執拗低音と呼びます。
代表的なものとしてバッハのシャコンヌ(パルティータ第2番最終楽章)やゴールドベルク変奏曲などがあります。
これらの音楽においては、執拗低音そのものは確固としたメロディを持たず、その上で変奏される主旋律を支える役目のみを担っています。
しかし、変奏される主旋律は次第に執拗低音の影響を受け時には大きく変質させられ、独自のメロディを奏でることになります。
この音楽を変質させる見えざる力(というか聴こえざる力=執拗低音)こそが執拗低音による音楽の本質となります。

つまり丸山氏は、日本文化の本質は執拗低音としての文化であり、そこへ入ってきた別の主旋律、例えば儒教・仏教・西洋思想などを変奏することで、「日本らしさ」を形成してきたのだと結論づけています。

「端的に言えば、この国の歴史のなかから完結的イデオロギーとして「日本的なもの」をとり出そうとすると必ず失敗する、しかし、外来思想の「修正」のパターンを見たらどうか。・・・その変容のパターンはおどろくほどある共通した特徴がみられるという一点に尽きる。」(「原型・古層・執拗低音」『丸山眞男集』第12巻)

「絶えず新しい文化的メッセージを海外に求めながら、根本的には驚くほど変わらない、いわゆる「日本的なもの」を執拗に残存させるこの国の文化的風土。」(『丸山眞男 音楽の対話』中野雄)

さらに作家であり批評家でもある加藤周一氏も、その著書の中で日本文化について同様の考察を行っています。

「日本の文化は雑種の文化の典型ではないか」「およそ日本文化を純粋化しようとする念願そのものを棄てることである」(加藤周一『雑種文化 - 日本の小さな希望』)

結局、日本文化というものは、執拗低音がそのままでは独立の楽想となり得ないように、日本だけで独自に作り上げられるものではなく、外国からの主旋律をその上に乗せて変奏することで生み出されるということなのです。
そして逆に、無理に執拗低音を固有のイデオロギーとして実体化しようとする試み、例えば江戸末期の鎖国主義や戦時中の国粋・軍国主義などは、必ず無理が生じ失敗するということも同時に述べられています。

遣隋使や遣唐使による中国文化、ペリー来航による西洋思想、アメリカ進駐軍によるアメリカ思想など、確かに日本は全ての主旋律を外国から輸入しそれを執拗低音のもとで変奏することで日本独自の文化を生み出してきました。
このことについては納得していただけたかと思います。

さて、以上により安倍新政権が今後選ぶべき道は明らかとなりました。

これまでアメリカによる主旋律を受けて日米同盟という執拗低音形式の音楽を奏でてきた日本は、新しく中国、あるいはアジアという主旋律を受けてそれを執拗低音のもとで変奏していく生き方を選ぶのが、最も自然で正しい選択だと思われます。
間違っても、アジアの主旋律の受け入れを拒否して執拗低音そのものを前面に出すような国粋主義的生き方を選ぶべきではありません。

執拗低音だけで音楽を作っても美しいメロディーを奏でることはできないのです。
そこに別の主旋律を持ってきて変奏することで、初めて美しいメロディーを作り上げることができるのです。

これから数年の間に、世界の政治構造を大きく変わっていくことでしょう。
しかしどのような大転換を受けようとも、日本には外国からの文化の流入に柔軟に対応できる執拗低音が常にその底流を流れていることを忘れてはいけません。

多極化の波の中で変に意固地にならずに、新しく生まれる美しいメロディーによって「美しい国」日本を表現していくことを安倍新政権にはぜひ目指していただきたいと思います。

 
5日間にわたって、長々と論じてきた安倍新政権の未来。
いかがだったでしょうか。
最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
今回の一連の記事がみなさんにとって、日本の行く末について再度考えてみるきっかけになってくれていれば幸いです。

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なお、安倍新政権に対しては人それぞれいろいろな考えや思いがあるかと思いますが、ここではあくまでも一個人としての考えを述べたまでですので、極端に政治的・思想的なコメント・反論等はご遠慮ください。
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