若者殺しの時代 堀井憲一郎(講談社現代新書)
若者はこの受難の時代をいかに生くべきか。選択肢は2+1。
#以前の読書日記から一部改訂して再掲します。
1983年 恋愛のクリスマスが始まる
1987年 男子が恋愛のクリスマスに追いつく
1987年 TDLが聖地化しはじめる
1989年 貧乏を完全に捨てた
1989年 カルチャーとしてのマンガを捨てた
1990年 文章は機械で書くものになる
1991年 ラブストーリーを見て女子が勝手に恋愛レートを上げた
1991年 そのぶん男子のためにヘアヌードが安くなった
1993年 女子高生の性商品化が始まる
1997年 携帯電話で社会が覆われる
1997年 大学の「単位」が「来る」ものになり世界はバーチャルになる
「若者」を作り上げ、「若者」から搾取し、「若者」をゆるやかに扼殺してきた80年代〜90年代。ゆるやかに押し潰されてきたぶん、なんとなく気付いてはいてもはっきりとは見えてこなかった若者殺しの社会。その若者たちの不条理を、サブカル分析を通して白日の下にさらした貴重な一冊です。
こういう変化のただ中を「若者」として生きてきた世代にとっては、実感ありまくりな感じで相当おもしろい本だと思います。もちろん世代がずれている人にとっても、社会が大きく変化していった当時の時代の雰囲気が感じられて、なかなか読み応えがあるでしょう。
たぶん、それなりにいい本です。きっと多くの人の共感を呼べる本だと思います。
ただ、、、僕たちの世代の「若者」にとってはどうなんでしょうか。
80年代に10代〜20代だった世代は、「若者」というレッテルを貼られることで、扼殺される側の役回りを(自主的にか強制的にか知りませんが)演じることができました。そして彼らは今、そうした「若者殺しの時代」を論じることで、再度自分たちの世代のアイデンティティを明確な形で意識することができます。
一方、現在25歳〜35歳の世代(=90年代後半に若者だった世代)は「ロスト・ジェネレーション」つまり「失われた世代」と名づけられ(命名主:朝日新聞)、時代による扼殺すらしてもらえなかった世代であると定義されました。就職氷河期のまっただ中に社会に放り出され、社会形成に何の関わりも持てないまま、空白の時代を空白に保つためだけに存在した世代。それがまさに僕たちの世代の、この世界における位置づけなのです。
著者は、崩壊寸前のこの社会を生き抜くためには「逃げる」しかない、と主張します。沈没船と一蓮托生はやめよう、うまく機を見て自分のカラダを使って勘と度胸で生き延びろ、と。
でもね、僕たち「ロスト・ジェネレーション」はもともと失われているんです。もはや逃げようが逃げまいが、そのことは世界の構造に何ら影響を与えないんですよ。
堀井さんが挙げた、若い人が居場所を確保する2つの可能性。
1. この社会を破壊すること
2. この社会から逃げること
このどちらにも、その社会の構成員であることが暗黙の内に仮定されていますが、それでは困る。僕たちにはどちらも選ぶことができない。
だから最後に、もう一つの別の可能性を挙げておきたいと思います。たぶんこれが唯一にして、最も素敵な可能性。
3. 全く新しい社会を作ること
そう、こちら側(リアル)じゃなくあちら側(ネット)の世界にね。
ロストジェネレーションにとって、こちら側の世界で新しい社会を形成するなど無理な話。だからあちら側の世界に可能性を見いだそうとみんな必死なんだ。頼むからあちら側の世界をこちら側の世界で贅沢に生きている人間が汚さないでくれ。僕たちはただ新しい世界を作りたいだけなんだから。(自分のつぶやきより)
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