Archive for 芸術系


真しほ会 for 長唄

真しほ会 for 長唄

昨日はD論の最終版を製本に出し、本当の本当に全ての仕事が終わりました。ロスタイム長かった。。
ということで、さっそく昨日は遊びにお出かけ♪
プロの長唄演奏会に初デビューです♪

書き初め2007

今年の書き初めです。
左側が僕の書き初め「一意專心」、右側は母親の書き初め「虚室生白」。
僕のは、一つのことに専念する、という意味です。
今年は研究一筋でがんばります。

モーツァルトの全楽譜を無料配布

今年はモーツァルト生誕250周年ということで、各地でモーツァルトコンサートが行われ、テレビでも特集が組まれ、のだめもブレイクし(それは関係あるのか?)、久しぶりに大きく賑わったクラシック業界。
そのとどめとして、素晴らしいクリスマスプレゼントがこのたび発表されました。
なんとモーツァルトの作品の全楽譜が、インターネットを通じて無料で手に入るというのです!
先日 Internationale Stiftung Mozarteum(ISM:国際モーツァルト財団)が、モーツァルトの全作品の楽譜をスキャンし NMA Online で無料公開を始めました。
様々なモーツァルト研究にもとづき、複数の版を用意したり大量の楽曲解説を付けたりと、とにかく至れり尽くせりの楽譜集となっています。
しかも何が嬉しいって、楽譜を pdf 形式でダウンロードすることができるようになっているので、印刷して個人的にそれを使用することが可能なんです!
またケッヘル番号を使って検索できるので、曲の指定も簡単で、好きな曲の好きな部分をすぐに探し出すことができます。
検索画面は基本はドイツ語表記になっていますが、英語のページも用意されているので問題ありません。
いやあ、とにかく素晴らしい。
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ちなみに、普通に楽曲を検索して選択すると jpg が貼り付けられたページが表示されます。
そのページの左上にある Table of Contents(ドイツ語だと Inhalts-verzeichnis)から目次の画面に行くと、pdf の表示があるのでそこから pdf をダウンロードできます。
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最近は著作権が切れた本をネット上で無料公開している青空文庫のようなページもいくつかあるみたいですね。
いい世の中になったものです。

ダリ展に行ってきました!

午後から東工大でセミナーだったのですが、午前中の時間が中途半端な感じになりそうだったので、この機会を利用して上野のダリ展に行ってきました。
すごい人気で、休日に行くと美術館に入るまでに30分待ちとか1時間待ちとかになるそうです。
どうせ平日の朝一に行くしかないなあとは思っていたので、ちょうどよかったです。
・・・しかしそれでもやっぱり大人気。
開館5分前に到着したのですが、もうすでに50人近くの人が並んでいました (*_*)
こんな展覧会は初めてです。
でもそれだけ人気が出るのも当然ですよね。
あのダリの作品が、それも有名作も含めて、大量に展示してあるのですから。
そしてどの作品もおもしろい。興味深い。
誰が見てもどんな見方をしてもどう解釈しても、とにかく思いっきり楽しめること間違い無しです。
ダリの絵の場合、細かい所をじっくり眺めたり、「しかけ」をじっくり発見したりする楽しみもあるので、今回は久しぶりに図録も買ってきました。
しっかりした解説付きの図録なので、しばらくはこれで楽しめそうです。
余裕があればもう一度行きたいなあ。
 
さて。
とにかく人気のこのダリ展。
普通に行っては、せっかくの絵が人だかりに埋もれてしまって、なかなかゆっくりとその魅力を鑑賞することはできません。
そこで、ダリ展に行かれる方には次のような見方をオススメします。
1. 平日に行く
基本ですね。土日に行くのはあまりに無謀です。
2. 開館時間(10:00)に行く
これも基本です。ちょっと遅れるとすぐに混みます。
3. 最初の「挨拶」や「この展覧会について」はスルー
こんなのネットでも読めます。
4. 最初の展示コーナーはサッと観たらすぐに次のコーナーへ
ここでじっくり観ようとしないこと。←ここポイント
早めに人が少ない次のコーナーへ移ってしまいます。
5. 次のコーナー以降は、いろんな距離・角度からじっくり絵を眺める
人が少ないと、いろんな場所から絵を観ることができます。
ちなみに、ほとんどの人は美術館に入ってすぐが一番「やる気」があるので、最初のコーナーではかなりの時間をかけて絵を観ていることが多いです。
また、音声ガイドに沿って観ている人も多いので、その解説の速度に人だかりの速度も律則されている場合がよくあります。
なので、そこをまずスルーして次に進めば、よっぽどのんびりしない限りその人たちに追いつかれる(=人だかりに巻き込まれる)ことはありません。
6. 最後まで観たら入り口まで戻って最初のコーナーの絵を観る
ここではすでに人だかりができていますが、まあしょうがありません。
入り口まで戻ってきたら、できれば音声ガイド(500円ぐらい)を借りて解説を聞きながら再度全ての絵を観たいところですね。
一度ゆっくり観ている絵なので、解説がスッと自分の中に入っていきますよ。
こんな感じでしょうか。
実際に今日はこの見方を実践しました。
おかげで1回目に観て回ったときは、ほとんど独占状態で絵を観ることができました。
(でも後ろを振り返るとみんな団子状態 (^^;)
これから行かれる方は、ぜひ「最初はスルー」方式でゆったりと絵を鑑賞してきてほしいと思います☆

ブダペスト弦楽六重奏団

久しぶりにコンサートに行ってきました。
演奏:ブダペスト弦楽六重奏団
曲目:
 R. シュトラウス カプリッチョ
 シェーンベルク 浄められた夜
 ブラームス 弦楽六重奏曲 第1番
この弦楽六重奏団は面白くて、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロのそれぞれの2人が全部親子なんです。
しかも子供の方は全員僕と同じぐらいの年。
ちょうど僕たちの世代が親と一緒に弦楽六重奏団を組んでいるわけです。
なかなか珍しいものを見てきました (^^)
浄夜を生で聴くのは初めてだったので、今回はとにかくそれを楽しみにコンサートホールへ。
まあ演奏はそれなりでしたが、浄夜を弦楽六重奏ヴァージョンで聴けたのでよかったです。
(浄夜はオリジナルは弦楽六重奏版なのですが、弦楽四重奏版か管弦楽版で演奏されることが多いので、今回の演奏会は貴重だったんです♪)
さあそろそろ10月。
芸術の秋もいいけど、研究の秋にせねば。

天才ヴァイオリニスト 渡辺茂夫

みなさん、渡辺茂夫というヴァイオリニストをご存じでしょうか?
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渡辺茂夫(わたなべ しげお)
昭和16年生まれ。神童。
7歳で初リサイタル後、様々なオーケストラにソリストとして迎えられ、輝かしい成果をおさめる。
12歳のときに、来日したハイフェッツがその才能を大絶賛、アメリカのジュリアード音楽院のスカラシップに最年少で推薦される。
アメリカ留学中、彼の才能に嫉妬したヴァイオリン教師ガラミアンとの人間関係に苦しむ。
昭和32年、睡眠薬の過剰摂取(自殺未遂ともアメリカの陰謀とも言われるが真相は不明)によって脳にダメージを受け、演奏家として再起不能の状態となる。
平成11年、大いなる才能を抱いたまま58歳でこの世を去る。
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彼は10代にして、技術・音楽解釈・表現力、その全てを極めたまさに「神童」でした。
日本が世界に誇る、そしておそらく20世紀が21世紀に誇る、天才中の天才でした。
今では彼の残したわずかな録音からしかその才能を窺うことはできませんが、その全てが奇跡的な完成度と美しさをたたえ、本当に言葉を失うような演奏ばかりです。
普通は子供の演奏だと、たとえ一流であってもどうしても技術ばかりが先行してしまい精神性がついて行かないものですが、彼の演奏は10代前半にしてすでにあらゆる点において完成されています。
ハイフェッツがわずか12歳の渡辺茂夫を大絶賛したというのがよくわかります。
あまりにも若くして音楽の全てが見えてしまったせいで、演奏家寿命そのものまで極めて短いものになってしまったのではないかと思えてなりません。
ルックスが良い、あるいはメディアへの露出度が高い演奏者のCDばかりしか売れていない現在のクラシック業界。
近年の若手演奏家の、生ぬるい演奏や表面的な解釈に満足しきっているクラシック愛好家たち。
渡辺茂夫のような天才が、昔この地球上に確かにいたのだということを、どうか忘れないでください。
フルトヴェングラー、カザルス、ハイフェッツ、そして渡辺茂夫。
こうした圧倒的な天才は、これからの時代もう現れることはないのでしょうか。。
「天才」とは何なのか、ということを改めて問われている思いです。
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ぶぎっちょ軍曹の音楽(おんらく)記

再現芸術と惑星科学

惑星科学において、惑星形成論をはじめとする理論的な「太陽系履歴」の研究は、音楽における演奏家の仕事と、ある意味において似ているのではないかと思っています。
演奏家は、作曲家を含めたその他のほとんどの芸術家とは異なり、再現芸術家という特殊な立場にあります。
彼らは楽譜に基本的に制約されます。
つまり、楽譜を通じて作曲家の想いを再現することによってのみ、自らを表現することができるのです。
もちろんそうは言っても、単に楽譜を機械的に再生することが問題なのではなく、その解釈と表現方法において、追創造というある種の創造芸術家としての契機と責任が彼らの中には含まれている、という点が重要です。
これらの立場は、現在手に入る太陽系の情報をもとに、その履歴を何らかのモデルによって説明しようとする、われわれ理論家の立場と似通ったところがあります。
太陽系の歴史によって自分が拘束されることと、歴史的対象を自分が再構成することとの、いわば弁証法的な行為を通じて過去の履歴を再現する、このことが本来的な理論家の仕事です。
ただしここで注意しなければならないことは、モデルに全ての情報を組み込み完全な形で歴史を「再生」してしまうことは、本質的には何も述べていないことと同じであり、それぞれの素過程の解釈をそれぞれの表現方法によって追創造することこそが、惑星形成論・初期進化論の主題であるということです。
このことは、近年クラシック界で急速に増え出した古楽器演奏家についても言えることです。
過去の模倣的再生ではなく、あくまでも新しい解釈・表現方法として、原点回帰というひとつの追創造がなされるべきなのです。
われわれも、歴史の再生そのものに意味を見い出そうとすることは、(少なくとも再現芸術家としての惑星科学者たらんとする場合において)、無意味な行為だと自覚するべきです。
さてその一方で、もともと音楽が純粋な創造芸術として生まれたものであることも忘れてはいけません。
作曲家兼演奏家であった「当時の現代音楽家」たちの仕事をどう追創造するかについては、これまでにもいろいろな試みがあります。
その中でも非常に特殊な試みとして有名なのは、ピーター・セラーズという演出家によるモーツァルトオペラです。
彼はオペラの舞台を現代のニューヨークのスラム街、あるいは摩天楼に移し、現代の設定のもとでオペラを再現しています。
すなわち、モーツァルトの「表現方法」のみを再現するという立場に立って追創造を行ったわけです。
モーツァルトの時代にモーツァルトの音楽が持っていた現代性を、20世紀の現代性に読み直して表現する、非常におもしろい試みです。
こうしたタイプの再現芸術の評価の是非はともかくとしても、再現芸術の多様性と可能性の広さは、そのまま音楽のおもしろさにもつながっているのだと思います。
そしてこれは、惑星科学における惑星形成論の汎化、つまり系外惑星形成まで含んだ汎惑星形成論の構築過程に近いともいえるでしょう。

フルトヴェングラーの名盤をどう聴くべきか

「フルトヴェングラーのレコードは、フルトヴェングラーの影すら留めていない」(チェリビダッケ)
フルトヴェングラー自身がレコーディングに全く興味がなかったことは、カラヤンが音楽媒体に異常なほど興味を示したことと同じぐらい有名です。
「レコードの誕生により、歪められた音楽、精神を喪失した、ただうわべだけを繕う単純なきれい事が、止めどもなくはびこることになった」(フルトヴェングラー)
フルトヴェングラーの「名盤」を通して、はたして我々は何を聴いているのでしょうか?
「テンポも、音色も、楽器間のバランスも、聴き手の反応を含めたホールのコンディションと演奏者のその日の気分によって変わる」(フルトヴェングラー)
フルトヴェングラーは常に、その場における音の響き方を感じながら音楽をコントロールしていたと言われます。
ところが当時のスタジオ録音においては、技術水準の低い再生機器から「どのように聞こえるか」によって、テンポも音色も楽器間のバランスも変える必要がありました。
「これは私のテンポではない」(チェリビダッケ)
再生機器の性能が向上した現在、フルトヴェングラーのスタジオ録音盤を聴くことに、どれほどの意味があるというのでしょう?
「リズムが歪み、フレーズが伸縮し、テンポが揺れる」(フルトヴェングラーを生で聴いた人々)
一方、フルトヴェングラーのライブ録音からは、彼の音楽に対する哲学の一部が垣間見れるかもしれません。
ですが、もちろんライブ録音はスタジオ録音の場合よりもさらに劣悪な録音状態にあり、そのような録音がフルトヴェングラーの音楽を完全に収録しているとは到底思えません。
こんな音楽を聴いて何が分かると言えるのでしょう?
「人類の音楽は、フルトヴェングラーの戦時中の演奏をもってその頂点とするんじゃないだろうか」(丸山眞男)
しかしそれでもなお、我々はフルトヴェングラーの録音を聴き続けるしかありません。
たとえフルトヴェングラーの全てを伝えていなくとも、残されたその録音は、後世のどのような指揮者によるどのような生演奏よりも「すぐれた音楽」である、ということだけが歴然たる事実だからです。
ラトルの表層的な音楽解釈、ゲルギエフの野蛮な響き、アーノンクールの奇を衒っただけの演奏。
ブランド化したウィーンフィル、精神性を失ったベルリンフィル、猿真似になり下がった古楽器集団。
もはや現在のクラシック界には、フルトヴェングラーと比較できる対象すらいないのでしょうか。
我々は一体いつまでフルトヴェングラーの戦時中の録音を聴き続けなければならないのでしょうか・・・
「でも、あんな悲劇的な状況と、悲惨な経験を抜きに最高の演奏が生まれないとしたら、<音楽>とはいったい何なんでしょう」(中野雄)
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『未完成』は未完成か?

シューベルトの交響曲第7(8)番、通称『未完成』についてのちょっとした考察。
(1)『未完成』は未完成である
交響曲というものは(特に当時は)4楽章まであるのが常識であり、2楽章までしかない曲は未完成に決まっている。
また実際に第3楽章のピアノスケッチも残っており、シューベルト自身が第3楽章以降も曲を続ける予定であったのは明らかである。
(2)『未完成』は未完成ではない
シューベルトは交響曲第8(9)番をその後完成させており、『未完成』については第2楽章以降を続ける意志は無かったと考えるのが妥当である。
おそらく第2楽章までで(意図していたかどうかとは別にして)音楽が完成してしまったため、「完成した」と見なして作曲を終わりにしたのであろう。
『未完成』の解釈には、基本的には以上の2つの考え方があります。
しかし結局はどちらも推測の域を超えず、『未完成』という曲の持つ意味について何ら新しい情報を与えるものではありません。
そこで、この曲が「未完成であるのか否か」について、「交響曲」というものの基本的な構造を捉え直すことにより、その問いそのものの持つ意味を浮き彫りにしたいと思います。
ベートーヴェンによって確立された「交響曲」の基本構造は
主題提示A → 主題提示B → 展開部 → 再現部A → 再現部B
というソナタ形式を持った楽章が、その楽章のみで閉じることなく第4楽章まで様々な展開を行った後、最終楽章のフィナーレにおいて各主題は解決され予定調和の中で終焉を迎える、というものでした。
それに対して『未完成』の第2楽章は
主題提示A → 主題提示B → 再現部A → 再現部B
という、ほとんど展開部らしい展開部を持たない構造をしています。
また第1主題の冒頭に現れる「運命の動機」に対する解決は最後までなされません。
(なお第1楽章の中盤で、この動機に対する展開部相当のものは存在します。)
しかしこの曲は、第2楽章の最後の数分で、再現部が断ち切られた後に突如予定調和的なメロディが現れることによって、全体がある種の解決をみているのです。
これは異常な事態です。
ベートーヴェン以降の交響曲の最大の魅力は、展開部および最後のフィナーレにおける各主題の解決にあります。
主題をどうこねくり回すのか、様々な意味を込めた各主題をどうまとめ上げるのか、その「過程」にこそ作曲家の信念やアイデアが込められるべきなのです。
つまり、もし『未完成』が第2楽章で「完成」されているのだとしたら、シューベルトはそれらの「過程」を全て否定したことになるのです。
近現代の作曲家の中には、各主題を解決させないまま強制的に曲を閉じたり、ほとんど展開部を持たないまま最後に「天の声」的な解決をしたり、という掟破りの曲を書いた人は確かにいます。
しかし、シューベルトが生きた時代に、意図的にその形式を壊した作曲家はおそらく皆無でしょう。
『未完成』がやはり未完成なのであれば、おそらく最終楽章において何らかの解決が図られたのでしょうが、第2楽章の最後にあからさまな形で曲の終わりが示唆されている以上、やはり『未完成』は完成していると考える方が妥当なのかもしれません。
以上より、もし『未完成』が
「各主題(≒多様性)を人為的に解決(≒汎化)することなんかできっこない」
という交響曲に対する極めて挑戦的なアンチテーゼとして「完成」されたのだとしたら、これは実は交響曲史上の大事件であったと考えることができるのです!
###おまけ###
『未完成』の音楽的構造を理解するためには、ヴァント・ベルリンフィルやアーノンクール・コンセルトヘボウあたりがよいと思います。
C. クライバーの演奏はもちろん最高ですが、極めて感覚的な音楽なので構造を見るのには向いていません。ただしとにかく素晴らしいですが!
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Yahoo!ブログ - 夜明ヶ前

バッハのピアノ曲におけるグールドの功罪

天才・鬼才・奇才。
若くしてステージでの演奏活動に見切りを付け、スタジオ録音に異常なまでに執着した、異色のピアニスト「グレン・グールド」。
彼の才能が最も強く発揮されたのがバッハのピアノ曲でした。
グールドは音楽家としてのスタイルのみならず、音楽解釈においても異色であり、バッハの伝統的な音楽に対して新しい解釈を次々と打ち立てました。
スタジオ録音における全てのテイクは新しい解釈の実験であり、1つの前奏曲やフーガについて10を超えるテイクを録ったと言われています。
そしてあろうことか、複数のテイクを組み合わせ、つなぎ合わせることによって最終テイクを作り上げるという荒技をやってのけたのです。
彼にとって、演奏は「完璧」な解釈を提供することこそが全てであり、その表現方法としてスタジオ録音を選んだのです。
こうして作成された(まさに「作成」されたのです!)彼の演奏は、それまでの伝統的な解釈を大きく揺るがす、全く新しいバッハの音楽でした。
グールドは、多様な音楽解釈の可能性とその必要性を、自らの創造的解釈の成功を通して我々に示したのです。
・・・と、ここまではめでたしめでたしなのですが。
グールドの最大の誤算は、彼の奇抜ともいえるバッハの新解釈があまりにも一般の人々に受け入れられ過ぎたことでした。
「伝統とは起源の忘却だ」(フッサール)の言葉の通り、バッハの音楽の原点が時とともに忘れ去られようとしていた中、過去の解釈にとらわれない自らの新解釈を提示したグールドの演奏は、本来のバッハの音楽のあるべき姿を見事に浮き彫りにしました。
そしてその演奏は、バッハ演奏の原点として位置づけられるようになったのです。
これ以降、バッハのピアノ曲はグールドの演奏を「絶対基準」として演奏・鑑賞・評論されることとなります。
特に「ゴールドベルク変奏曲」に関しては、グールド以外のピアニストによる全ての演奏は、グールドの演奏と比較されるためだけに存在しているといっても過言ではありません。
あらゆる演奏の行き着く先はグールドであり、あらゆる解釈はグールドの世界から逃れることができないのです。
なんとも皮肉なことではありませんか。
音楽解釈の多様性を追求し、その必要性を訴えてきたグールドは、自らの音楽が「絶対的」なものとなることによって、むしろ多様性を失わせる結果を生んでしまったのです。
もう一度バッハのピアノ曲に多様性を与えるためには、(現在のクラシック界にグールドを超えるピアニストがいるとはとても思えませんが)、いずれまた現れるであろう新しい天才に音楽解釈多様性の可能性を託すよりほかないのでしょう。
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USHINABE SQUARE 〜クラシック・名盤・名演と消費、生活、趣味のブログ
まぁちゃんのクラシック音楽覚え書き

JAKUCHU -The Price Collection-

ようやく行ってきましたよ、若冲と江戸絵画展。
今朝はちょっと寝坊してしまったので大学に行く気が起きず、そのまま非日常モードへ突入。
突然思い立って上野まで行ってきました。
久しぶりの美術展。
相変わらず人が多かったですが、一応平日のお昼だったので、休日だともっと大変なことになっているのでしょう。
平日を空けて行って正解でした。
さて、絵画展ですが、マイミクさんの日記である程度状況を理解して行ったんですけど・・・う〜んやっぱり若冲少ないね orz
もっと持ってるでしょ、プライスさん。
#やはりこれは、三の丸尚蔵館にも行かざるを得ないようです。
でも数は少なかったけど、若冲は本当に素晴らしかったです。
最初の方は長沢芦雪や亀岡規礼の作品にもため息をついて「素敵だなあ〜」と魅入っていたのですが、若冲の作品が登場してからはそれまでの展示がかすむほどの素晴らしさ。
構図といい色彩といい遊び心といい、圧巻でした。
古典に則したものから挑戦的な作風のものまで、バランスよく展示してあったのでたっぷり楽しめました。
その後の江戸文化を匂わす展示もユニークな作品が多くて面白かったですが、やはりなんと言っても若冲ですね。
こんなに真剣に若冲の作品を見たことはたぶん初めてだったので、ずっと興奮しっぱなしです。
やっぱりもっとたくさん見てみたいなあ。
この展覧会は若冲を前面に出しているので、他の作家へは見てる側としても注目度が下がるのですが、何点か気になる作品もありました。
どうやら僕は長沢芦雪と鈴木其一が好きらしいです。
そして酒井抱一は(鈴木其一のお師匠さんですが)あまり好きじゃないらしいです。
江戸絵画はあまり詳しくないので今はまだよくわかりませんが、もう少しいろんな作品を見て、このあたりの違いを勉強してみたいです。
とりあえずは三の丸尚蔵館に行って、若冲をもっと見てこよう♪

和音の幾何学

7月7日号の科学雑誌 Science になんとも不思議な論文が載っていました。
音楽の和音を、幾何学空間内での位置関係を用いて表現した、という論文です。
Dimitri Tymoczko, The Geometry of Musical Chords
Science, 313, 72-74 (2006)
この論文では、和音と旋律を数学的空間中の点と線として捉える「orbifold」と呼ばれる新しいアプローチがなされています。
著者はこの手法を用いて、私たちがどのような和声を快いと感じるかという問題に対して、数学的な解釈を与えることに成功したというのです。
著者が注目したのは、クラシック音楽の重要な作曲技法である和声(2種類あるいはそれ以上の音をまとめて1つの和音を作り出すこと)と対位法(複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ調和させて重ね合わせる技法)です。
著者は、和音が有効かつ心地よい響きを生み出すよう連結されるか否かの「規則」は、幾何学的空間における和音間の連結を地図に表すこと、また和声と対位法がどれくらい正確に関係しているかを表すことによって、数学的に表現することが可能であることを証明しました。
そしてさらに、作曲者は「空間」を探求することによって新しい音楽を作り出すことができるだろう(そして実際にそうしているはずだ)と述べています。
すなわち、数学的に美しい和音を作り出すための解空間を求めれば、その「空間」を音楽に変換することで素晴らしい音楽を作曲することが可能であると言っているのです。
科学的には計り知れない(とみんな思い込んでいる)「感性」を数学的に記述してしまうなんて、なんとも恐ろしい論文です。
次は無調・12音音楽の美しさについても論じてもらいたいところですね。

アルバン・ベルク四重奏団

久しぶりにコンサートに行ってきました。
そして久しぶりに”超”一流の演奏を聴いてきました。
演奏:アルバン・ベルク四重奏団
曲目:
 モーツァルト 弦楽四重奏曲 第14番
 バルトーク 弦楽四重奏曲 第2番
 モーツァルト 弦楽四重奏曲 第19番「不協和音」
アンコール曲:
 バルトーク 弦楽四重奏曲 第4番4楽章
とにかくもう、圧巻!でした。
世界の弦楽四重奏団の頂点「アルバン・ベルク四重奏団」
全ての録音が名盤となり決定盤となり、弦楽四重奏団の至宝と讃えられ、常に世界の頂点に君臨し続けてきた彼らの演奏を、目の前で生で聴くことができるなんて。
もう今は幸せでいっぱいです。
興奮が収まりません。
やっぱりたまには”超”一流の芸術に触れるべきですね。
一晩で感性が100倍ぐらい高められた気がします。
#そう、こういう演奏会にこそ行くべきなのだ。
♪今夜は本当に素敵な素敵な夜でした♪

成功した例 〜映画化の技法〜

#そろそろこのネタもうんざりでしょうか?w
映画「ダ・ヴィンチ・コード」が褒められたりけなされたり観られたり観られなかったりしている今日この頃、原作をもとに映画化された作品で最も成功したものはなんだろう?と考えてみました。
・・・とは言ったものの、正直なにも思いつかない。
やっぱりどうしても原作と比較してしまうので、うまく映画化できた作品なんてほとんど無い気がしてきました。
どうなんですかね?
僕はそんなにたくさん映画を観ている方ではないので、思いつかないだけかもしれませんが。
ただ、ここで1つだけ気になった作品があります。
僕が大好きな(何度も何度も観た)映画でもありますが、「The Hours」(邦題「めぐりあう時間たち」)です。
この映画は、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」をもとに作られていますが、単に原作を映画化したものとは全く異なっています。
「ダロウェイ夫人」を軸に物語りを作ったという感じの映画です。
そして、その試みは極めて見事に成功したと僕は思っています。
「めぐりあう時間たち」は、
 「ダロウェイ夫人」を主題に展開されるソナタ形式の音楽
のような感じ。
それに対して、「ダ・ヴィンチ・コード」を始めとする再現映画は
 室内楽を編曲してオーケストラバージョンに仕立てた音楽
のような感じ。
クラシックの世界を見渡してみても、他の作品の一部を主題動機として用いて展開した作品の方が、全曲を編曲して作り直した作品よりも成功した例が多いはずです。
はい、つまりそういうことなんだと思います。
なんだか分かりやすいんだか分かりにくいんだか、という感じの例えになってしまいましたが、自分の中では一応納得したので今日はこの辺で切り上げておやすみします (__)zzZ

九響@すみだトリフォニーホール

お昼過ぎから、九州交響楽団の演奏会に行ってきました。
指揮:広上淳一
ヴァイオリン:堀米ゆず子
ハープ:荒木真子
・ショスタコーヴィチ:祝典序曲
・ブルッフ:スコットランド幻想曲
・シューベルト:交響曲9(8)番「ザ・グレイト」
というプログラム。
九響が最近急激に力をつけてきたという噂だったので、地元のオケということもありちょっと気になって探りに行ってみたわけですが・・・(以下覚え書き)
・祝典序曲
ややスロースターターか。
良く言えば上品、悪く言えば覇気のない感じのスタート。
中盤より少しずつ音楽がノってくる。
打楽器と管弦の響きのバランスがよい。(ホールがよいおかげ?)
フィナーレは豪華絢爛に締めくくられるが、明るさの中にもショスタコ独特の陰鬱さを表現してほしかった。やや力不足か。
・スコットランド幻想曲
堀米さんのグァルネリの響きが美しい、特に中高音領域の伸びは見事、ただし低音部の扱いは少し雑な感じ。
オケとの掛け合いは絶妙で、さすがはベテランと言うべきか、オケの音を全身で受けた上できちんとリードしており、安心して聴き通せた。
同じ広上さんの指揮なのに、上原彩子(彼女はピアノですが)のときとはこうも違うとは。
全体に演奏が上品すぎるのが気になる。
・「ザ・グレイト」
やはりスロースターター。
第1楽章のフィナーレは踏ん張りすぎでしょw
第2楽章は素晴らしい。
主題の歌わせ方、テンポの揺らし、実に美しい。
九響の可能性の深さを感じさせてくれた楽章。
第3楽章は完全に中だるみ、「天国的な長大さ」の前に力尽きた感じで残念。
フィナーレではなんとか持ち直すものの、執拗な繰り返しの狂気で会場を包み込むまでには至らず。
ただ、音の「うねり」は全盛期のコバケンを思わせた。(間違っても今のコバケンではない!!)
全体的にまだまだ成長途上な感じはあるものの、時折見せるきらめきは将来の可能性を十分に期待させるものでした。
でも地方オケにとってのせっかくの東京公演なのだから、もう少し意気込みを見せてくれてもよかったのでは?
「九州唯一のプロオーケストラ」という立場に甘んじているわけではないでしょうが、ややおとなしすぎる気がします。
今後は、どれだけ本気で上を目指していけるかが、九響の成長にとって重要となるでしょう。
まあなんだかんだで、地元のオケということで応援しています。
これからもがんばってくださいね♪

モーツァルトの長調・短調

「モーツァルトは、長調で、楽しい曲も哀しい曲も、幸せか不幸か判らないような音楽も、書けたじゃないですか。しかし、短調では、モーツァルトを以てしても哀しい音楽、悲痛な響きしか描くことはできないんです」(宇野功芳)
いや、まあ、そうは言ってもですねえ。
それでもやはり我々はモーツァルトの短調の音楽にどうしても惹かれてしまうわけですよ。
それは、モーツァルトの短調が一般の短調音楽をはるかに超えているから、すなわち、過度の感傷に陥らずに、透明度の高い、気高さを湛えた悲哀の音楽であるからなんです。
神の領域に達した音楽、とでも言うべきでしょうか。
モーツァルトの長調は確かに底知れぬ可能性を示してはいますが、その領域には結局辿り着いていないと思うのです。
もちろん短調好みが日本人の特質であるだけなのかもしれませんが、、、ね。

誕生日

今日ぐらいは、朝から晩までモーツァルトを聴きますか♪

Rosas

みなさま、Rosas(ローザス)というコンテンポラリーダンスグループをご存じでしょうか?
2年ほど前にたまたまタワレコのDVDコーナーでその映像を視聴して以来、非常に気になっていたダンスグループだったのですが、ちょうどいま恵比寿にある東京都写真美術館で Rosas の 25周年展をやっているということだったで、さっそく行ってきました。
###ちなみに Rosas とは…###
ベルギー・ブリュッセルを拠点に活躍するコンテンポラリーダンスグループ。
振付家 Anne Teresa De Keersmaeker による革新的な音楽解釈と、計算されつくした端正で美しいダンスは、傑出した舞台・映像作品を数多く世に発表し続けている
http://www.rosas.be/Rosas/index.html
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で、展覧会ですが、期待通りのすばらしいものでした。
写真展とともに映像インスタレーションもいくつか展示してあり、非常に楽しみながら Rosas の独特の世界に浸ってきました。
垂直・水平・緊張・脱力といったコンテンポラリーダンスの基本をおさえた上で、原始的で単純な動きから反復と増幅を繰り返しながら複雑なラビリンスを描いてゆく映像展。
静と動が絡み合い、切り出された瞬間瞬間が観るものの身体の奥底に深く鋭く食い込んでくる写真展。
身体も心も激しく揺さぶられること間違いなしです。
Rosas ファンの方。
コンテンポラリーダンスが好きな方。
平凡な日常に刺激を求めている方。
この挑戦的でスリリングな世界を一度体験されてみてはいかがでしょうか。