※ネタばれ注意!※
※「MONSTER」(浦沢直樹)を未読の方は読まないでください!!※
浦沢直樹の名作「MONSTER」について、読後の疑問点にQ&A方式で答えていきます。
ただしこれらの回答は全て個人的な解釈によるものであり、その正誤については一切責任を持ちません。
また、「もうひとつのMONSTER―The investigative report」については読んでいないため、浦沢直樹本人のこのマンガに対する解釈とは異なるかもしれませんが、その点はご了承ください。
Q.ヨハンとアンナの過去について
A.赤いバラ屋敷に連れて行かれたのはアンナ。
その記憶を受け継いだのはヨハン。
511キンダーハイムでの「事件」を起こしたのはヨハン。
しかし、アンナも511キンダーハイムに預けられていたことになっている。
ではあの「事件」が起こったときアンナはどこに?
「君は僕で 僕は君」
そう、アンナもあの場にいたのだ。
そしてその記憶は、再びヨハンに飲み込まれた。
(いや、むしろヨハンに押し付けた、と言うべきか)
Q.フランツ・ボナパルタは、何をしようとしていたのか?
これは本作品のメインテーマである。
結論から言えば、キーワードは
「多重人格と双子」
以下、個々の問題について詳しく述べる。
Q1.絵本について1(めのおおきいひと くちのおおきいひと)
A1.あくまを受け入れた「くちのおおきいひと」
あくまを拒絶した「めのおおきいひと」
どちらも結局は不幸になってしまう。
お互いに
「受け入れればよかった」
「受け入れなければよかった」
と思いながら。
人は、相反する感情を自らの内に共存させねばならないとき、
そこに相反する人格を作り上げてしまう。
決して互いを受け入れることのない二つの人格。
それぞれの人格の内なる願望は、互いのもう一つの人格に引き渡される。
「くちのおおきいひと」は、あくまを受け入れたくないという思いを
「めのおおきいひと」に引き渡した。
「めのおおきいひと」は、あくまを受け入れたいという思いを
「くちのおおきいひと」に引き渡した。
しかし、その思いはそもそもそれぞれの内に潜んでいたものであり、
いつか必ずそれは、潜在意識の底から引きずり出されるのだ。
Q2.絵本について2(へいわのかみさま)
A2.神様は「絶対善」である。
悪魔は「絶対悪」である。
絶対善であるためには、内なる悪の全てを悪魔に引き渡さなければならない。
絶対悪であるためには、内なる善の全てを神様に引き渡さなければならない。
一人の人間の中に生まれる、相反する二つの人格。
鏡の中にもう一つの人格を発見したとき、
それを受け入れることのできなかった神様は
それを自らの人格の一つとして受け入れることのできなかった神様は
悪魔の眉間に銃を向けてしまう。
悪魔を許すことが、神様にはできなかったのだ。
Q3.絵本について3(なまえのないかいぶつ)
A3.二重人格から多重人格へ。
「人はなんにだってなれるんだよ」
名前が無ければ、人はなんにでもなれる。
あらゆる人格を作り出すことが出来る。
人間を縛っているものは「名前」なのだ。
名前が無いことこそ「完全なる自由」なのだ。
しかし、その「名前」を手に入れてしまったとき、
全ての人格を、その「名前」が飲み込んでしまったとき、
そこに残されるのは、「完全なる孤独」でしかありえない。
「名前」は、相反する人格さえも飲み込んでしまうから。。。
Q4.511キンダーハイムでの「実験」について
A4.まさに、子供たちの中に別の人格を作り上げるという実験。
そしてそれは、その意味において成功した。
過度のストレスを受けた子供たちに、突然現われた異常なまでの攻撃性。
新しい人格に全てを託し切れなかった子供たちの自殺。
そして、「超人シュタイナー」
Q5.なぜ、ヨハンとアンナが「選ばれた」のか?
A5.フランツ・ボナパルタは、ある恐ろしい「実験」を考え付いた。
それは、一人の人間の中に多重人格を生まれさせるのではなく、
全く同じDNAを持った双子に、二つの相反する人格を与えること。
彼は当時何組かの「選ばれた」夫婦に、実験用の子供を作らせていた。
そんな中、たまたま生まれた双子のヨハンとアンナは、
彼に大きなインスピレーションを与えてしまったのだ。
Q.アンナとヨハンの記憶のすり替えについて
A.アンナは赤いバラ屋敷に連れて行かれた。
それは、アンナに「悪魔」の人格を植えつけるため。
しかしフランツ・ボナパルタは、計画を突如中断してしまう。
双子の母親に恋をしてしまったために、
あの母親の子供を「怪物」にしたくはなかったがために、
全ての関係者を殺害し、すべての「記憶」を消したのだ。
「ここであったことは、全て忘れなさい
人はなんにだってなれるんだよ
怪物になんかなっちゃいけない」
そして、アンナは全ての記憶をヨハンに託すことに。。。
Q.ヨハン・リーベルトについて、そして、全ての謎解き
A1.〜511キンダーハイム事件まで
アンナが赤いバラ屋敷に連れて行かれた後、
彼らの母親もどこかに連れ去られてしまう。
そのため、アンナが帰ってくるまでの間、
ヨハンは部屋で一人で絵本を読み続けることになる。
このときの「絵本」が、後のヨハンの生き方の全てを決定付けることとなる。
ヨハンは帰ってきたアンナから全ての記憶を受け継ぎ、
自分の中に「怪物」の人格を作り上げる。
ヨハンは「くちのおおきいひと」
アンナは「めのおおきいひと」
そして「悪魔」を受け入れたヨハンは、511キンダーハイム事件を起こすことに。
A2.〜リーベルト一家惨殺事件まで
ヨハンとアンナは、事件後二人で生きていくことを誓い合う。
「君は僕で 僕は君」
一人の人間 二つの人格 二人の人間 二つの人格
「神様」と「悪魔」、二つの相反する人格が双子という形で共存していく。
神様の知らないところで、身の回りの人間を次々と殺していく悪魔。
そして、あの夜、とうとう「神様」は鏡に映った「悪魔」を見てしまう。
「ちゃんと頭を狙って撃つんだよ」
A3.〜ヨハンが絵本を読んで失神するまで
離れ離れになったヨハンとアンナは、全く対照的な人生を送る。
内なる悪魔を押さえつけるかのように、明るく快活な毎日を送るアンナ。
どこまでも膨れ上がる悪魔に身をゆだね、人を殺し続けるヨハン。
ヨハンはここでも「絵本」に大きな影響を受けている。
次々と人を喰らい、大きくなっていく「悪魔」
「僕を見て!僕を見て!僕の中のモンスターがこんなに大きくなったよ」
「助けて!僕の中のモンスターが破裂しそうだ!」
ひがしのあくまが、にしのあくまに出会ったときのように、
ヨハンはアンナへ向けて、自分が大きくなっていることを伝え続ける。
絵本の内容を覚えていずとも、潜在的に、絵本によって操られているヨハン。
いや、内容を覚えていなかったからこそ操られているのだろう。
(当然、内容を失ったのは511キンダーハイムでの実験による結果)
しかし、ヨハンは図書館で「なまえのないかいぶつ」に再会してしまう。
そして、その最後を思い出してしまうのだ。
そう、最後にもう一人の自分を食べてしまうことを。
唯一心を許していたアンナを食べてしまうことを。
「君は僕で 僕は君」
そのことを思い出したヨハンは、あまりのショックに涙を流し失神してしまう。
A4.〜アンナがヨハンに全てを話すまで
ヨハンはその後も「最後の風景」を思い描きながら、さらに人を殺し続ける。
ただし、絵本のことを知った彼はある目的のために人を殺し続けることになる。
それは、自分たちの人生を弄んだ人間に「最後の風景を見せる」という目的のため。
ペトル・チャペックへの復讐のため。
そしてその後、ペトル・チャペックらを動かしていたフランツ・ボナパルタが
彼らの人生を狂わせた「絵本」を描いたフランツ・ボナパルタが
生きていることを知ったヨハン。
最後の復讐を行おうとしていたまさにその時、
アンナ・リーベルトの全ての記憶がよみがえる。
「違う!違う!あれはあなたじゃない!」
A5.ヨハン、全てを悟る
アンナから全ての話を聞いたヨハンは、全てを悟ることとなる。
双子の母親の、フランツ・ボナパルタへの憎しみによって
二人は生まれながらにして「なまえのないあくま」となっていた。
名前を探しに西に旅立ったのはアンナ。
赤いバラ屋敷で悪魔の所業を目の当たりにするが、
「ここであったことは、全て忘れなさい
人はなんにだってなれるんだよ
怪物になんかなっちゃいけない」
その言葉によって、アンナは悪魔に飲み込まれずに部屋に戻ってきた。
一方、名前を探しに東に旅立ったのはヨハン。
アンナも母親も引き止めることのできなかった「ヨハンおうじ」は、
「絵本」という悪魔に飲み込まれてしまう。
そして「怪物」になってしまったヨハンは、
帰ってきたもう一人の「なまえのないあくま」の記憶をも飲み込んでしまう。
そう、このとき既にヨハンはアンナを飲み込んでいたのだ。
「君は僕で 僕は君」
ヨハンは、全てを悟ったのだ。
「目が覚めたんだ
これまでたくさんの終わりの風景を見てきた
でも、これが本当の終わりの風景だったんだ」
ヨハンの名前を読んでくれる人は、もう既にどこにもいなかったのだ。
A6.完全なる自殺
全てを悟ったヨハンは、完全なる自殺を図る。
ヨハンの中の「悪魔」を知る最後の人物、フランツ・ボナパルタに「最後の風景」
を見せ、彼とともに全ての記憶から消えてしまうこと。
それは、完全なる「モンスター」になってしまったヨハンの、
自らのアイデンティティを表現する唯一の方法。
「なまえのないあくま」として自分たちを生んだ母親への、唯一の愛情表現。
そして、「ヨハン/アンナ」という二人の人間の中に生まれた「悪魔」の人格
への最終審判。
多重人格者が、自らの中の悪魔の人格を消し去るために自傷行為に走るように、
鏡の中に悪魔を見出した神様が、その眉間へ銃を向けるように、
ヨハンは自分自身を完全に消し去ろうとしたのである。
A7.そして全てが終わる
アンナがついにヨハンの全てを許す。
ヨハンの存在そのものを、自らの中の悪魔の人格そのものを受け入れる。
多重人格者が、全ての人格を受け入れて、
全ての悲しみや苦しみをしっかりと自分のものとしてとらえるように。
全てが許され、全てが受け入れられるのである。
双子という特殊な二人の間に生まれた二つの相反する人格。
その二つの人格が、ついに一つの人格として統合されるのである。
「君は僕で 僕は君」
そして
最後にヨハンが病院を抜け出して向かった先は、、、
もちろん、母親のもとであろう。
アンナは別の施設に預けられたのでは?
アンナが預けられたのは、511とは別のキンダーハイムですよ。
◆作品のメインテーマ
「フランツ・ボナパルタは、何をしようとしていたのか?」という事が、
作品のテーマというのは、読み込みが不足していませんか?
ストーリーの中心ではあるけれど、テーマという言葉は不似合いに思います。
この作品のテーマは、”贖罪”と”贖罪に対する向き合い方”ではないでしょうか。
◆絵本について
目の大きな人も最終的に悪魔と契約します。
其れに対する考察が欠けていませんか?
このお話は、怪物の話と泥棒の話のラストに繋がっているものと思われます。
◆最後の風景
自分たちを弄んだ人間に復讐するとの事ですが、復讐の対象は”クラウス・ポッペ”のみです。
当初の目的は、蟻の行列をいじって、ヨハン自身が最後の風景を見る事であったと思います。
また、絵本を読んだ後の「最後の風景」を見せる対象は天馬のみですよ。
「最後の風景を見せる」とは、悪魔との契約へ誘うと言う事ではないでしょうか・・・。
参考にならない内容ですね
間違いだらけやないか
自分としてはとても参考になったしこれだけの考察ができるなんてすごいと思いました
結局ラストの「僕の中の怪物」とはなんだったのでしょうか?
母親がアンナとヨハンの2択に迫られた事と関係あるのでしょうか?
そして病院を抜け出したヨハンは何のために母親に会いに行ったのでしょう?
いつか、ヨハンがニナを迎えに行くことってありえますか?いや、どちらかというと願望に近いのですが、二人がまた再会できた姿を見て、安心したいというか………。読み込みが足りないのは、十分に承知です。お教えください。
充分でしょ。こんだけ読み解けたら。どちらかというと読者に意味合いは任せているマンガだから解釈は人それぞれでいいんだと思う。ここまでしっかりしたことはなかなか書けないよ。間違いを指摘してる人がいるけど気にしなくていいと思う。あくまでも自分の解釈だから。僕はとても好きな解釈でした。ありがとう。
復讐の残酷さ
最終回のラストでヨハンがベッドから落ちてたのはずっこけた
何で最後の最後にギャグに走ったのか…
まだ利用価値のあるヨハンは連れ去られたというバージョンも
ボクは、テンマの中にモンスターがいて、周辺に現れるモンスターは、テンマの妄想だと言うオチに向かうのだと思っていました。
が、全然違いましたね。
結果、すっきりしない終わり方でした。
結果すっきりしないと、人に勧められないんですよね。
ハッピー・アンハッピーに関わらず、肝を抜かす衝撃が欲しい
久々に動画でモンスターを見てみました。今までとはちょっと違った感覚が湧いてきた。
兄が闇過ぎ妹が光過ぎる、それが違和感。
作品では施設で何があったのか、全てが語られていない。そして客観的なは殆ど記録が無い。
そこで思えてきたのは、兄妹の闇を全て兄が引き受け、だからこそ妹は光の中で居られるのではないかという事。その後の兄の悪業は自分の痕跡を消すことではあるが、悪を犯すことで妹の闇さえ自分の闇であるとアリバイ工作しその反証を消す行為でもある。
作品では精神分析して妹の記憶が徐々に明らかになっていくけど、兄の行為はその上を行って妹の闇にブロックをかけている、そう思えてきましたよ。
最後はすっきりしたけどなあ。
途中でルンゲが、犯罪現場とかになんの痕跡も残さずにいられる人間なんて
ひとりもいない。いるとしたら、それは人間じゃないっていうようなこと
言ってましたけど、今までヨハンはずっとそれで、人間ではなかった。
でも、ラストで、ベッドから抜け出した後のベッドがぐちゃぐちゃで、しわがよってたりして
そこに人間がいた痕跡があった。
それって、最後でやっとヨハンが人間になれたんじゃないかなと。
この記事読んでコメント読んで一番ストンと納得できたのが↑のゆうさんのコメントだった
シンプルに本質を突く事が出来る人は尊敬します
ゆうさん 最高だ。
こんにちは。最近アニメ74話観終わりました。漫画は一巻しか読んでいません。大変深い、手に汗を握る素晴らしい作品だというのは分かったのですが、やはり腑に落ちないこと、理解できない点がたくさんあります。やっぱり漫画を全巻そろえてじっくり読みたいですね。
しかし浦沢先生はこのようなスケールの大きな話をどのように思いついたのでしょうか。メインはもちろん数エピソードしか出てこない脇役にもしっかりとした設定がされており、それが各キャラの行動、発言に違和感を持たせない要因となっていると思います。
日本人以外のファンからも評価が高いので、日本人が勝手にあの時代のドイツを想像して作った非現実的な話、という内容でもないですし本当に尊敬します。
また、アニメ作品も作画、音楽、声優さん達の演技など大変丁寧に作られていてお勧めです。
漫画も読まないと、と思いました・・・。
ありがとうございます!とても参考になりました。
久しぶりにコミックを読み直して、解らない所が多すぎて色々な方の意見を読んでみたいと思ってました。
一番分からないのはニナの一番怖い最後の記憶ってのが、母親に選ばれたって事なんでしょうかね?ヨハンもそれを気にしてたみたいだし。
読み返してみて、闇の部分を全部引き受けたヨハンの哀しさが突き刺さりました。
母親に会いに行ってどうしたのか・・・管理人様の意見が気になります。
最終巻で母親が選択する場面をニナが演じている場面でヨハンはニナに謝っています。あれはおそらく母親が自分を選びそうになった時、ヨハンが自分はニナであるという合図を送ったのではないでしょうか。
ニナもヨハンも自分が選ばれたと思った、という見解です。
人生が十人十色な様に、解釈は人それぞれだという素晴らしいお話しですよね。後味悪いこのすっきりしない感じが正に人生。深いですよね…生きていくという事を考えさせられます。また、死に向かって生きているのだなと、思い知らされます。
この全ての登場人物の葛藤が人間が生きている証拠。
本当に素晴らしい作品です。
この世の終わりの風景画みたい。それだけだと思うな。実はアンナはそれを見ている。ボナパルタが見せてしまった、全員を殺した風景。しかしボナパルタは、そこからアンナを救い出した。
ボナパルタは実権をしていたが、結局2人の母親に恋をして、2人を助けることを望んだ。彼は、本来ならどちらが来ようと良かった。この機を逃さず逃がすつもりだったから。しかし母親は、2人の内1人を特定して行かせるつもりだった。本当は彼女から見て女の子が悪魔だった。でもとっさのことにどちらを行かせたかわからなくなっていた。
実際の選択は母親の思ったとおり娘を行かせたわけだが、そこで、ボナパルタと言う要素が絡んだことで、悪魔合ったはずのアンナは悪魔にはならなくなった。
皮肉なことに、終わりの風景の話を聞いて、それに興味を持って、それが見たいと願ったのは、風景を見ていない方のヨハンになってしまった。彼がもし母親が間違えて、あの館に行かされていたら、彼は終わりの風景を見ることができて、その後も道を誤らなかったろう。しかし見たのはアンナだけ。そしてアンナはあの出来事をきっかけに悪魔ではなくなり、ヨハンが悪魔になった。見たことのない風景を見ようとする一心で。
人は何にでも慣れる。ほんの少しのきっかけで。
この物語は全てにおいてこのテーマを描いている。511キンダーハイムも、あらゆるエピソードが、ホンの些細なきっかけで人が変わっていくことを描いている。ヨハンは最期の風景を求めて狂い続ける。アンナはそれを知っているから、狂わなかった。
そしてヨハンは自分のように、この風景を見る人を天馬に定めた。この風景を見て、その人間が変わっていくことを知って、見せた。でも天馬は変わらなかった。ある意味で、ヨハンは風景によって帰られない人を見たかった。天馬が変わらないことが、ヨハンの翻弄された人生から見て、唯一の救いだった。
この物語は本当に愛しているかを確かめるために、相手を追い詰め続ける物語でもある。この話はそこここにエピソードがちりばめられる。
求めて求めて、その先にある物は。そういう話だと思う。
その先にある物は、
天馬はどう言う答えを出したか、アンナは。そしてヨハンは本当に見たいものが見ることができたか。
ヨハンの答えはまだ出ていない。ヨハンはもう一度尋ねたいのではないかと思う。
まず、ヨハンとアンナは一卵性双生児ではなく二卵性双生児です
ですので「全く同じDNAを持った双子」ではありません
二卵性双生児の遺伝子的差異は兄妹のそれと同じですのでわざわざヨハンとアンナで実験する必要はないのでは?
その辺の年の近い兄妹でやればいいのですから
最近読了しましたので、拙文ながら素人が感想を書かせていただきます。
Q.フランツ・ボナパルタは、何をしようとしていたのか?
多重人格が物語テーマなのではなく、人間としての誰しもが心に秘めている「闇」みたいなものをテーマにしているのだと思います。
「誰しもが持つ闇はたまたま蓋をされているが、何かの刺激で表層に現れる。」というようなものでしょうか。作中では悪魔とか悪魔以上のものと表現されていますが、作中の人物達はこういった自分の中にある闇に苦悩しています。
Q.511キンダーハイムの目的
Q4.511キンダーハイムでの「実験」について
これも別の人格を作ることが目的ではないと思います。あの施設は軍の実験場ですよね。軍がこどもの人格を多重人格にしたところでメリットがありません。あの施設の目的は子供の感情を消すことです。感情を消すことで優秀な兵隊を作るのが目的でしょう。優秀な両親をかけ合わせた子供を選んでいますし。名前という個人の持つ絶対的な情報を記憶から消すのも、汚い仕事やスパイとして働かせるためでしょう。
・「最後の風景」の意味
これは簡単なもので核戦争による世界崩壊ですよね。
浦沢直樹はビリーバットでも人間の争いによる地球終末論を描いていましたが、人間の心の闇が生み出す未来というメッセージに感じます。
人間が闇を抱えて他人を疑い、このまま争い続けていけば地球は戦争によって崩壊する。あの最後の風景の様になる。
だからヨハンは自分の中に生まれた闇にあのイメージを感じ、最後の風景を見せているんじゃないでしょうか。
・疑うことから生まれるMONSTER
作中でスークがもう人を疑いたくないと苦悩します。ラストの集団パニックも猜疑心から来るものです、ヨハンが病室で過去の自分に怪物が現れたとテンマに告白する場面でも、母親を疑っているセリフが出てきます。
僕は怪物が生まれる要因としてフォーカスされているのが、この疑うという心だと見えました。この疑うことへの作品的アンサーとして「信じること」という行動をテンマがよくとっていますし、作中では信じることが正しい行動、物語を好転させるポイントのように描かれている気がします。
テンマがヨハンを助けたのって善とは限らないし
テンマはモンスターかもね
テンマはモンスターの親
この作品の根底にはフロイトの言うエロスとタナトスの葛藤があるのではないか。
人間の悪の部分をすべて引き受けたヨハンが、全くエロスを感じさせない(悪であれば女を手玉にとったり、レイプをしたりすることもあるだろうが一切そういう描写はない)のに対し、光の部分を引き受けたアンナが売春婦の格好をするなどエロティックな面を見せるという描き方がそういうことなのかなあとも思いました。
そしてテンマのような人間にもタナトスの部分はたしかにあり、その鬱屈したものがヨハンを動かした(手術するだけでなく、その後に極自己中心的な愚痴をヨハンの前で漏らした)とすると、やはりテンマの中にも怪物がいたのであり、つまりこの怪物は我々のすべてに潜んでいるものなのではないか。
私は、ヨハンの目的や怪物の正体だとかを考察するのは重要ではなく、真実を追求するキャラクターたちの「過程」を見てほしいのではないかと感じた。
これが近年の浦沢作品に共通する読後のモヤっと感の原因だろう。
たぶん彼は作品をミステリーとして書いていない。
それを読者がミステリーだと勘違いして読むから、違和感が残るのだ。
彼が「MONSTER」で伝えたかったのは、
「幸福になるためにもがき続ける生きざま」
だと思う。
「なぜ生きるか」ではなく「どう生きるか」
悪い、勝手に考察で書いてるようだったから読んでないけど、ただのゴミ漫画だわ
勝手に考察すんのもいいけど、まんまと作者に乗せられてるだけやん。
意味分からんように描いて読者が勝手に自己完結するの待ってるだけな。深い意味なんかない。
読んだオレの結論 ただのクソマンガ
刈ってたら駄作として焼き捨ててるレベル
しょーもない
しょーもねえのはお前だよ
まずな 深い意味がないって決めつけるなボケ
そもそも何かしらのテーマがなきゃ漫画なんて作らねーだろうが その時点でなんかしらの意味はあんだよ
漫画家は意味もなく漫画を作らねーんだよ
例え本人が意味が無いと言っていても言語化されてないだけで必ず無意識の中にあるもんなんだよ
それを読み手が深いと感じるか浅いと感じるか、それだけなんだよ
その作者なりのテーマやら物語のあらゆる場面の意味を読み手が考察するのがこの漫画の醍醐味なんだよ
物語を考察することは有意義なことなんだよ
だから作者に踊らされてるとかいう謎の被害者意識はお前以外誰も持ってねーよ
その被害者意識無くさねえから本来娯楽であるはずの漫画も楽しめないんだよ
つべこべ言わずに原作読んで自分の脳みそ使って物語を理解しろや
それが出来ないなら猿以下
あの漫画を延々と読んだ感想が“クソ漫画”の一言とは。頭をまったく使って読んでないのか、そもそも最後まで読んでないのか。“勝手に考察してる。まんまと踊らされてる。”って、パワーワードで笑ったわ。漫画をはじめ、芸術の奥深さを知ると楽しいですよ。
途中まで、ヨハンを撃つのにずっと迷うテンマにヤキモキしてました。
図書館でヨハン撃つのに迷うテンマにヤキモキしてました。
K.P.さんの疑心・信心の話に納得しました。
アンナとヨハン、どちらが母親に選ばれたとしても、捨てられる選択対象として見られたことは強烈な疑心を生み出すきっかけになったのではないかと思います。
「母」という役割は子供の世界観を作るものだと聞きます。脆く不安定な母の愛と擁護はヨハンの世界観を最初に作ったものだったのではないでしょうか?(アンナがなぜ平気?なのか疑問ですが)そしてキンダーハイムでは人間の疑心を生み出し利用するスキルを習得し、その後会う人会う人を惑わせていきます。
1巻で主人公テンマは「金の亡者は死んだ方がマシ」と愚痴ります。ここでテンマの人命救助優先・人命価値の疑心が露わになり、ヨハンに対面した際にはそこを指摘されます。そこからテンマの追究が始まるように思います。
確かにこの物語はスーク刑事やヴァーデマン弁護士など、信じる事について語っているシーンが多いですね。
上のほうに書いてある、
ゆうさんの「病室を去ったヨハンは人間に戻れた説」と、
K.P.さんの「怪物は猜疑心から生まれる説」に
首がもげるほど納得してしました(・・;)
ありがとうございます!^^
何年も前の作品なのに、こうして貴重な意見、考察が読めたことに感謝いたします。
わからないわからないと思いながら、ずっと気になる作品でした。
正解は、作者の中か、あるいは正解など無いかもしれません。
やっぱり、ヨハンはニナを守りたかったんだね。
母に選ばれなかったことを隠したかった。
手術で助けたテンマが、ニナを追い詰めたのか。
ニナが怪物だと思って見かえすと面白い。男をたぶらかし、目的のために何でもする。ニナがなく描写は回想以外にないんじゃないだろうか。
怪物は自然に突如として現れるのではなく、社会や他人が作り出す、あるいは怪物を大きく成長させてしまう…ということなのかな。例えば、ヒットラーだって時代や民衆が望まなければ、あそこまで大きな怪物になることはなかった。
私たちはみんな心の中に闇を、怪物を抱えている。ニーチェが言ったように、深淵(怪物)を見つめたとき、私たちはその怪物に飲み込まれてしまう。自分の中の怪物だけではなく、他人の怪物でも同じこと。ヨハンはアンナの中の怪物を見た。
滝沢先生はたぶんニーチェやヘッセなど、ドイツ系の哲学や文学が好きなんじゃないのかな。特に、ヘッセの「デミアン」の影響は強いように思う。ヨハンの雰囲気や話し方はデミアンによく似ている。終わりの風景のようなものも類似点がある。
ゆうさんの考察のように、ヨハンは最後に本当の自分、つまり人間に戻ったんじゃないのかな。自身にとって最もつらく、自分が怪物となった原因、母親の二者択一の記憶をテンマに託した後で。人間に戻ったヨハンはその後何をしたのだろうか?
どこをどう解釈したらこうもズレまくった。
昔漫画をチラッと読んだことがあったけど、それ以来読んでもなかった。最近になって、アニメ面白いよと勧める方がいたので一気に最終まで観てみた。
浦沢さん謎解きが好きなのか、そういう意味では楽しめたし、つぎが観たいとあっという間に見終わった作品で良くできているなと感心した。
リアルさを匂わせミステリーに誘うところはとても上手いと思ったが、実はリアリティはあまり無かった。史実に基づいた何かしらの暴露があると思ったが、最後までそれは無かった。
人間の奥底に潜む闇や、あるいは人間愛などいろいろと描かれていてその面白味は味わえたが、それ以上のものは無かった。
ナチスの残党、旧ソ連と西側諸国による水面下での攻防を垣間見れるのかなと期待していただけに、それらは殆ど描かれていなく残念。でもベルリンの壁崩壊後、ソ連崩壊後のチェコや東ヨーロッパのなんとも言えない雰囲気を醸し出していたようでそれはそれで鑑賞できるかもしれない。
ミステリー作品としてはとても面白い作品だと感心しました。
ただ史実に基づいて何かしらの暴露もされるのかなと期待していただけに最後までそれはなく残念。
リアリティを匂わせミステリーに誘うその上手さは評価できるけど、それ以上ではなかった。
最後のヨハンがベッドから消えた描写、ゆうさんのおかげで個人的に腑に落ちました。ありがとうございます。
ヨハンはどこへ行ってしまったのか。
気になるところではありますが、そこからは「怪物」としてでは無く、「人間」としてのヨハンの行動になる為、わざと描写されずにこの「MONSTER」という物語は幕を下ろしたのではないかと思いました。
今しがた、アニメ全話視聴完了しました。
何年も前に漫画を読み、当時は意味がわからず…今回大人になってアニメを見て、当時よりは色々理解出来たものの、最後はやっぱりよく分からずでした。
「痕跡を残したヨハンは人間になった」という話と
「疑う気持ちが怪物を作り出す」という話が
ここを読んでとても納得しました。
人間になったヨハンは、ゲルマーさんのように人の心を取り戻していくといいな。そしていつか、お母さんくらいの年になった頃でも、ニナと再会して欲しい。お互い人間らしい穏やかな気持ちで。
疑える状況でも人を信じるって、人間が人間である所以なのかもしれないですね。
とりあえずエヴァ運良すぎだろ
ヨハンとアンナで1人の人物ということなのかなと思いました(少なくともヨハンはそう思っている)。
元々、1人の怪物が2つに分かれたという絵本の表現からヨハンはそう思い込んだのかなと。
だからこそ、アンナの記憶を自分の記憶と信じてたのかな。
双子の母親のどちらかを連れて行くという判断も、ボナパルタが自分に恋愛感情を持っているのを分かった上で自分の分身(女児)を引き渡し、そこまで悪いようにはしないであろうという打算があったのかもしれませんね。
そして、タイトルのモンスターは、ヨハンのことではなく、すべての人間が内に怪物を飼っているということなのかなと。
テンマ然り、リヒャルト然り、エヴァ然り、ルンゲ警部然り、弁護士の人だったり主要人物ほぼ全部が、悪意や、自分の信念に振り回される様に描かれてますよね。それが内なるモンスターということかなと思いました。
あと、グリマーさんとロベルトが511キンダーハイム時代の友人だった設定も2人が対照的かつ1人の人物のみたい(ヨハンとアンナの様に)に描かれていて良かったです。攻撃性をなるべく抑えたままのグリマーさん攻撃性を出し続けたロベルト。きっとロベルトもグリマーさんの記憶を何か一つ持っていたのかもしれませんね。グリマーさんがホットココア好きの友人を覚えていたように。
最後に感情を取り戻し泣いたグリマーさんと、最後にヨハンに拒否され、涙を流したロベルト。ここも何か1つに統合されたような感じがしてよかったです。
最後のヨハンが消えているのは、事件に関わった人々の内なる怪物が消えた(象徴としてのヨハン)という風に捉えました。
ある種のテンマの心模様かな?
実物はきっと今もベッドの上なのかもしれませんね。
ニナがニナとして生きていく限り、彼は目覚めることは無いのでしょう。
一つの考察記事からコメント欄へと、読者の考察が20年近く続いているなんてすごいですね…。
自分も単行本を一気読みして結末に「???」となった身ですが皆さんの考察見て腑に落ちた部分も多く大変参考になりました。
いつもは結末が明確に描かれる作品を読むことが多いのでMonsterの曖昧なラストに戸惑いましたが、たまには自分の頭を使って楽しむような作品があってもいいかな…と思いました。脳死で漫画読んでるときが多いので。あと明確なバッドエンドよりは読者に解釈を委ねる方がまだ救いがあって自分にとってはよかったです。ただ先生自身の明確なアンサーがあるのなら示してほしい気持ちはやっぱりありますが…。
なんにせよ皆様のご考察とても興味深く拝見しました。脳死オタクを救ってくださりありがとうございます。
ヨハンは自分の本当の名前を知らされて、名前のない怪物ではなくなった。名前のない怪物だと思っていた自分が、人間だった。
最後はヨハンではなく人間として生きるために病院を出たのかなと思いました。
ヨハン人間に戻ろうが人を殺しすぎ
ルンゲ途中ポンコツ過ぎてイラっとする
警察はテンマ捕まえられなすぎ
ロベルト、エロ、強い
みんなヨハンに操られ過ぎ
ヨハンの頭銃弾に耐えすぎ
モンスターは子供を差し出した母親
この物語の主要人物ほぼみんなMONSTERだと思うわ
まず主人公のテンマの行動原理がヨハン(怪物)を生き返らせてしまったことへの悔いとその清算みたいな感じで物語が進むけど、この一種の執着のような感情が怖い
作中でもあったけどテンマは自分の無実の証明とかではなくヨハンを殺すことに執着していたけど、テンマがあの時ヨハンを救わない選択は恐らくテンマの中での正義?善?に反するからその選択に後悔をすること自体おかしい ただその後にヨハンに漏らした愚痴によってヨハンの殺人を誘発し、その後の連続殺戮の誘因をテンマが作ってしまったという罪悪感と後悔がテンマを物語の終わりまで連れてきた 普通の人間は自分がヨハンを殺さなきゃとはならん気がする
ニナの屈託のない純粋善さもものすごく違和感 ヨハンの闇をそのまま移し替えしたような眩しさがある あんな壮絶な体験をしていて、あんなによく笑ってよく泣く良い子が育つなんてよっぽど引き取ってくれた老夫婦がいい人達だったんだろうな 深層心理で、ヨハンに全ての悪を押し付けてしまったという罪悪感が消えていなかったんだろう
この漫画には、そうだったのか!というカタルシスがない。
色々分かりづらい。
読者の解釈に委ねてるといえば聞こえはいいがある意味不親切。
話の風呂敷を広げるのは結構だが、読者に消化不良感を与えるのが一流の芸術作品なのだろうか。
次々と読者の関心を引っ張る技巧的テクニックは素晴らしいと思うが、もう少し読み手が理解しやすいようにプロットを書く配慮があってもよいのではないか。
511キンダーハイムで子供のみならず大人までもなぜ殺し合ったのか、その中でヨハンだけどのようにして生き残ったのか、1番肝心の部分の描写が抜けている。ミステリー小説で言えば、トリック未解明のまま犯人だけ提示されて終わり的な具合。
ヨハンが511キンダーハイムでの教育により絶対悪へと変貌を遂げる過程を生々しく描いてこそのストーリーだと思うが、そこがすっぽり抜け落ちているのが残念。
作者にその肝心な部分を描く技量と精神医学への背景知識がなかったから端折った、と読者に勘繰られてもこれは致し方ないだろう。