『未完成』は未完成か?

シューベルトの交響曲第7(8)番、通称『未完成』についてのちょっとした考察。

(1)『未完成』は未完成である

交響曲というものは(特に当時は)4楽章まであるのが常識であり、2楽章までしかない曲は未完成に決まっている。
また実際に第3楽章のピアノスケッチも残っており、シューベルト自身が第3楽章以降も曲を続ける予定であったのは明らかである。

(2)『未完成』は未完成ではない

シューベルトは交響曲第8(9)番をその後完成させており、『未完成』については第2楽章以降を続ける意志は無かったと考えるのが妥当である。
おそらく第2楽章までで(意図していたかどうかとは別にして)音楽が完成してしまったため、「完成した」と見なして作曲を終わりにしたのであろう。

『未完成』の解釈には、基本的には以上の2つの考え方があります。
しかし結局はどちらも推測の域を超えず、『未完成』という曲の持つ意味について何ら新しい情報を与えるものではありません。

そこで、この曲が「未完成であるのか否か」について、「交響曲」というものの基本的な構造を捉え直すことにより、その問いそのものの持つ意味を浮き彫りにしたいと思います。

ベートーヴェンによって確立された「交響曲」の基本構造は

主題提示A → 主題提示B → 展開部 → 再現部A → 再現部B

というソナタ形式を持った楽章が、その楽章のみで閉じることなく第4楽章まで様々な展開を行った後、最終楽章のフィナーレにおいて各主題は解決され予定調和の中で終焉を迎える、というものでした。

それに対して『未完成』の第2楽章は

主題提示A → 主題提示B → 再現部A → 再現部B

という、ほとんど展開部らしい展開部を持たない構造をしています。
また第1主題の冒頭に現れる「運命の動機」に対する解決は最後までなされません。
(なお第1楽章の中盤で、この動機に対する展開部相当のものは存在します。)
しかしこの曲は、第2楽章の最後の数分で、再現部が断ち切られた後に突如予定調和的なメロディが現れることによって、全体がある種の解決をみているのです。

これは異常な事態です。

ベートーヴェン以降の交響曲の最大の魅力は、展開部および最後のフィナーレにおける各主題の解決にあります。
主題をどうこねくり回すのか、様々な意味を込めた各主題をどうまとめ上げるのか、その「過程」にこそ作曲家の信念やアイデアが込められるべきなのです。

つまり、もし『未完成』が第2楽章で「完成」されているのだとしたら、シューベルトはそれらの「過程」を全て否定したことになるのです。

近現代の作曲家の中には、各主題を解決させないまま強制的に曲を閉じたり、ほとんど展開部を持たないまま最後に「天の声」的な解決をしたり、という掟破りの曲を書いた人は確かにいます。
しかし、シューベルトが生きた時代に、意図的にその形式を壊した作曲家はおそらく皆無でしょう。

『未完成』がやはり未完成なのであれば、おそらく最終楽章において何らかの解決が図られたのでしょうが、第2楽章の最後にあからさまな形で曲の終わりが示唆されている以上、やはり『未完成』は完成していると考える方が妥当なのかもしれません。

以上より、もし『未完成』が

「各主題(≒多様性)を人為的に解決(≒汎化)することなんかできっこない」

という交響曲に対する極めて挑戦的なアンチテーゼとして「完成」されたのだとしたら、これは実は交響曲史上の大事件であったと考えることができるのです!

###おまけ###
『未完成』の音楽的構造を理解するためには、ヴァント・ベルリンフィルやアーノンクール・コンセルトヘボウあたりがよいと思います。
C. クライバーの演奏はもちろん最高ですが、極めて感覚的な音楽なので構造を見るのには向いていません。ただしとにかく素晴らしいですが!

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