藝大と理研の共同シンポジウム@東京藝大に行ってきました。シンポジウムを通して考えたことを簡単にまとめておきます。
藝大ー理研 連携協力記念シンポジウム「未来を拓く ~科学と芸術の交差~」
http://www.riken.go.jp/r-world/event/2009/riken-geidai-sympo/index.html
東京藝術大学と理化学研究所が「科学と芸術の融合」を目指して連携協力を行う。なんて素敵な企画でしょう。ということで早速、その記念シンポジウムに参加してきました。
シンポジウム前半は、藝大と理研から各一人ずつ登壇し、ある一つのテーマについて対談(×3)が行われました。それぞれどれも刺激的かつ魅力的な、素晴らしい対談でした。
対談中は、科学と芸術がうまく融合したり、すれ違ったり、対立しあったり。様々なやりとりが行われ、聴衆側も有意義な時間が過ごせたと思います。
ただ個人的に、ひとつだけ気になった点がありました。それは対談された方が(意識的かどうかは知りませんが)科学と芸術の違いを非常に強調されていたことです。
「そもそも『科学』と『芸術』なんて本当にわかり合えるのでしょうか?」
「こんなに全く違う『科学』と『芸術』を融合させようという我々の試みはとても画期的ですね!」
というスタンスで対談が進んでいきました。
僕はこの感覚については非常に疑問があります。そもそも科学と芸術が全く違うものだと心から思っている研究者なんて、いったいどれほどいるでしょうか。
世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いようである。しかし科学者には科学者以外の味わう事のできぬような美的生活がある事は事実である。
(中略)
また一方において芸術家は、科学者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまいと思う。この事はあるいは多くの芸術家自身には自覚していない事かもしれないが、事実はそうでなければなるまい。(寺田寅彦)
芸術家が神来的に得た感想を表すために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の技巧とも見られるべきものであろう。(寺田寅彦)
科学と芸術は本来的に似通った性質を持っており、どちらも同じく「この世界をよりよく理解、あるいは表現する」ことを目指しています。その手法や思考過程、そこから得られる美的感動など、要素のみを取り出せばどちらも区別がつかないほど似通ったものとして捉えられるはずです。
これが研究者の「科学と芸術」に対する、極めてまっとうな感覚だと思うのですよね。
ということで、あまり「異分野交流」的な雰囲気を前面に出すのはやめた方がいい気がしました。当たり前のこととして、科学と芸術の融合を実践していく。それでいいんじゃないかと思います。
さてシンポジウム後半は、宮田藝大学長・野依理研理事長・利根川理研センター長の3人による鼎談。ノーベル賞受賞者2人を迎えての激論を交わすという、なかなか豪華な鼎談でした。
こちらは、野依先生の熱いメッセージがとても印象的でした。現代社会において科学と芸術(文化)が乖離していくことを強く危惧されており、今回の藝大と理研の連携協力について、その根底にある「思想」を熱く語っていただきました。
野依先生のお話をじっくり聞いたのは今回が初めてでしたが、強い信念と哲学を持ってサイエンスを行われておられることがよくわかる講演で、とても感動しました。と同時に、研究者としてどう生きていくべきかについて、とても考えさせられる講演でもありました。
こういう信念を持った方が理事長をされている理化学研究所は、本当に魅力的で質の高い研究所だと思います。
藝大と理研の連携協力が進んでいけば、今後もまたこういう対談企画などが開かれることがあるかもしれません。科学者として(そしてまた芸術を愛するものとして)、自分自身の立ち位置をしっかり確認するためにも、なるべくこうしたシンポジウムには積極的に参加していきたいと思います。
このような科学者と芸術家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇しないであろう。二人の目ざすところは同一な真の半面である。(寺田寅彦)
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最後におまけで、科学と芸術について自分なりに考えたことを簡単にメモ。
太陽系の歴史によって自分が拘束されることと、歴史的対象を自分が再構成することとの、いわば弁証法的な行為を通じて過去の履歴を再現する、このことが本来的な太陽系形成論の仕事である。
楽譜によって演奏が拘束されることと、その解釈と表現方法を介して音楽を追創造することとの、いわば弁証法的な行為を通じて作曲家の想いを再現する、このことが本来的な演奏家の仕事である。
それが科学たりうるためには、またそれが芸術たりうるためには、単なる再生ではなく自らの表現方法を通じた再構成や追創造を行うことが必要である。その先に、未来の多様性と可能性が広がっている。過去が未来につながること、それが本質だと思う。
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