衝撃の「処女三部作」第二部。個人と社会、男性と女性の関係を処女性を通じて残酷に描ききります。
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本作品は第一部「ドールハウス」と第三部「不倫(レンタル)」を繋ぐ、姫野カオルコ「処女三部作」の第二部となっています。また、全て姫野カオルコ自身の私小説でもあります(だそうです)。それぞれ独立した作品としても楽しめますが、異なる主題を持った三楽章からなる長編小説として続けて読むのがまっとうな読み方でしょう。
私は男に飢えていた。
そんな独白から始まるこの物語。理津子はなぜ男に飢えているのか、なぜ飢えなければならなかったのか、本書ではその理由が切々と語られていきます。なぜ理津子のような “ふつう” の女性が、男に飢えなければいけないのか。
理津子の個人的な事情としては、厳格なカトリック神父のもとで幼少期を過ごしたことが大きな原因になっています。自分が女性性を所有することは罪悪である、他人が自分の肉体を望むと考えることは傲慢である、といった心への強い制約が、理津子自身を縛り付けます。幼少期にカトリックと自己アイデンティティとの関係をうまく切り分けることができなかった理津子は、カトリックの世界を離れ「社会」に出たときに、「社会」における “ふつう” と自己の “ふつう” との間に大きな溝を作ってしまいます。
ここで読者が思いを馳せるべきは、理津子の事情そのものは極めて特殊なものであっても、同様に「社会」と「個人」との間に大きなひずみを作ってしまった女性が世の中にはたくさんいる、ということでしょう。そのひずみのために成熟できず(=処女)、苦しみ、飢え、沈黙(silence cry)の中で業火に焼かれる夜を過ごす女性が、世の中にたくさんいることを、本作品は理津子を通して読者に語りかけます。
彼女たちは口を噤んでいる。彼女たちの夜は、自己のひずみの海である。決してあなたはひとりではないと、彼女たちのその海に、ひとときでも灯火を映せたらと私は願う。
そう、第一部に続いて、本作品でも姫野カオルコは世の処女たちの沈黙(silence cry)を掬い上げ、彼女たちに「祈り」を捧げるのです。そしてそれは、本シリーズが私小説でもあることを考えると、姫野カオルコ自分自身への祈りでもあるのでしょう。
さて一方で、本作品には「救い」も用意されています。それは本能の赴くままに生きる男性・大西との間に作られた「友情という何者か」です。彼との出会い・語らいによって、理津子は自分自身のひずみを少しずつ受け入れることができるようになります。
ひずみの形はもちろん人それぞれですが、本作品の祈りと救いがたくさんの silence cry のもとに届き、そのひずみを受け入れるきっかけになることを、一読者として祈りたいと思います。
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