新釈雨月物語 新釈春雨物語 石川淳(ちくま文庫)

記念すべき読書日記100冊目。
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本書は上田秋成の「雨月物語」「春雨物語」を石川淳が現代語訳したものです。
格調高き原文と創意に満ちた訳文とが見事なまでの相乗効果を生み出している傑作です。
未読の方はご一読を。

まず、上田秋成の文学として最もよく読まれるのはやはり「雨月物語」でしょう。

これはとにかくすごいです。
まず最初の「白峯」の書き出しに圧倒されます。
読者を一気に物語に引きずり込む運動感のある文体、巧みな文章構成と緻密な言葉の配置、西行と上皇とのテンポの良い掛け合い。

どこにも隙がありません。

その後も、死して霊となってまで再会の約束を果たす男を描いた「菊花の約」や、人間の羈絆を脱して鯉に化した僧の眼にうつる絶美の自然をえがく「夢応の鯉魚」など、有名作品がずらりと並びます。
どれをとっても、完璧なまでの仕上がりで、全く文句の付けようのない奇跡のような短編集です。

江戸時代にあって、前衛的な短編集をこれほど完璧な形で表現し切った上田秋成に対し、私たちは完全に言葉を失います。

ところが、です。

その一方で「春雨物語」に目を転じると、なんとも状況ががらりと一変してしまうのです。

まず「血かたびら」「天津をとめ」と歴史的なエピソードを淡々と書き連ねる短編が並びますが、どちらも浅く軽い。
紀貫之と海賊との歌論の掛け合いを描いた「海賊」も、よくできてはいますが「雨月物語」で見られたような精密な構成美はもはや存在しません。

なぜ上田秋成文学はこれほどまでに変わってしまったのでしょうか。

そのことを理解するためには、上田秋成自身が変化の中に一生を送ったことに目を向けねばなりません。

彼は若い頃は放蕩生活、その後俳諧の世界に入り、商売を家業とした後に医者になり、次第に短編を執筆しつつ、一方で歌も詠み国学も修めた、そんな人なのです。
そして文学作品そのものも、茶の本から戯文、怪異譚に随筆まで、ありとあらゆるジャンルに挑戦しています。

つまり、「春雨物語」における文体や文章構成の大きな変化は、新しい文学(一種の散文ですね)を開拓するための必然的な変化だったということなのでしょう。
本書を通して「雨月物語」「春雨物語」の2編を読むことにより、私たちは上田秋成の底の深さをこそ感じるべきなのかもしれません。

さて、話はそれだけでは終わりません。
実はここからが本題だと言ってもよいでしょう。

「春雨物語」の最後に収録された「樊噲(上・下)」を読むに至り、読者は確実に再度この上田秋成文学に圧倒されることとなります。
「春雨物語」という散文形式による新しい挑戦が、なんとここで完全に完璧な形で完成されているのです。

つまり、上田秋成が「春雨物語」によって試みた散文形式による小説の終着点が、その最後の作品においてすでにくっきりと示されているわけなのです。

「雨月物語」に対して相対的に存在感の薄かった「春雨物語」が、最後に「樊噲(上・下)」を配することにより、ぐっとその重みを増す。
二大物語としての両輪がしっかりと地を捉え、文学が美しく立ち上がる瞬間を、ぜひ感じてみてください。

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