アメリカとイラク

2003年3月20日、アメリカはイラクに対して空爆を開始しました。
国連を完全に無視した形で戦争に突入したアメリカ、無謀なまでにアメリカ対し敵対姿勢をとるイラク。
一体何がこの両国を突き動かしているのか、なぜ戦争は避けられなかったのか。
アメリカとイラクの過去の歴史を振り返ることで、アメリカとイラクの戦争の「意味」を検証し、今後「アメリカとイラク」問題がどう解決されるべきであるかを議論したいと思います。

なお、以下の文章においては「「イラクとアメリカ」酒井啓子(岩波新書)および「アメリカのイラク戦略―中東情勢とクルド問題」高橋和夫(角川oneテーマ21)の内容を引用した部分が多いです。
興味のある方はぜひご一読ください。

 
序章:中東に生まれた「脅威」

なぜ「アメリカにとっての脅威」が中東に生まれることになったのか。
その一つの答としては、冷戦期のアメリカの対中東外交がそれを生み出したからだ、ということが挙げられる。

第二次大戦以降、アメリカは中東地域やその他の途上国全般を新米・親ソの二つに分類し、そこで発生する紛争を「冷戦」という二極構造の中で解釈し処理しようとしてきた。
だが、少なくとも中東においては、紛争構造の根幹にあるものは、そうした米ソ二極構造に回収できるものではなかった。
それを無理やり冷戦の枠組みに押し込めていくことで、アメリカと中東諸国の二国関係に矛盾が生まれることになった。
その例がイランとイラクである。

また、サダム・フセインと戦った未完の湾岸戦争は、さまざまな「サダム・フセイン的なるもの」を生み出した。
アメリカを直接の攻撃対象としたテロ事件は湾岸戦争以降増えている。
その犯人が誰であれ、アメリカが恐れる対米テロの背景に、湾岸戦争の影響があることは確かである。
サウジアラビア生まれのビン・ラディンが強い反米感情を持つにいたったのも、まさに湾岸戦争において米軍がイスラムの聖地たるサウジアラビアに駐留したことに対して反発したからに他ならない。

結局、中東の「脅威」はアメリカ自身が自ら生み出したものであり、複雑な国際関係の中でそれは巨大な「モンスター」へと膨れ上がっていったのである。

 
1章:イラクの履歴とサダム・フセイン

1958年、イラク王政政権の親英依存体質、国内の社会経済的矛盾など、さまざまな問題を背景にして軍の青年将校が立ち上がり、イラクにおいて「共和制革命」が起こった。
この後のイラクの軍事政権に共通して見られる特徴は、いずれも反西欧・反帝国主義・親ソというスタンスをとったことである。
それはある意味で、王政期に西側の反ソ政略の駒として使われたことや対英依存に対する反動であった。

共和制革命後、60年代にアメリカが対イラク対策として依存したのは、隣国イランであった。
イランは、共和制革命後のイラクの群雄割拠状態を利用して強力な反米政権が成立しないよう、湾岸地域一帯を見張ることになった。
 
その後、イラクではソ連離れが進み、西欧諸国との経済関係が70年代後半以降急速に深まったが、その一方でアメリカとの関係は相変わらず冷たいままであった。
この時期アメリカにとって最も重要な位置を占めているのは、やはり「湾岸の憲兵」イランだったのである。

しかし、この状況を一変させる事件が起こった。
イラン革命である。イランのシャー政権が1979年、イラン革命によって転覆されたことは、アメリカの対湾岸政策を根幹から揺るがす大事件であった。
革命後に成立したホメイニー師を核とするイスラム政権は、徹底した反米政策を掲げたのである。

そこで、アメリカの新たな「代理人」候補として浮上したのが、イラクであった。
そしてこのとき、イラクのバアス党政権の第二代大統領に就任したのが、サダム・フセインだったのである。

これが、以後複雑な履歴をたどるアメリカとサダム・フセインとの、最初の出会いであった。

 
2章:イラン・イラク戦争

イラン革命後、イスラム運動がイラク国内でも広がることを恐れたフセイン大統領は、イスラム運動に対する弾圧を強化していった。
そして1980年9月、イスラム革命の波及に対する予防的措置を取ること、及びイランの革命後の混乱に乗じてイラクに有利な国境線を強要することを目的に、フセイン大統領はイランへと侵攻を開始した。
これが「イラン・イラク戦争」である。

イラン・イラク戦争は、イランの抵抗を小さいと評価したイラクの思惑とは異なり、革命後のイランにイスラエルが武器援助を行ったことなどによってイランの軍事力が高まり、次第にイラクの戦況は悪化していった。
そんな中、「イランを勝たせてはいけない」という共通利害のもとに、アメリカはイラク支援体制をとり、イラクに次々と武器を輸出していくことになる。
アメリカは、イランがイスラム革命を中東全域に「輸出」することを恐れたのである。
イラクが国際法で禁止されている化学兵器を用いたことについてアメリカが目をつぶったのも、イランがイラクに侵攻し中東の力のバランスが崩れるのを危惧したためであろう。

そうして泥沼化していったイラン・イラク戦争は、8年間の後にようやく終結を迎えた。
そしてこのとき、湾岸に残されたのは、経済的に困窮しながらもありとあらゆる武器を装備して軍事大国になったイラクという怪物だった。

しかし、イラクの軍事大国化、及びその非人道性に対する懸念が世界中に広がっていく一方で、アメリカとイラクの関係はますます良好なものになっていく。
「怪物」になったイラクに対して、それまで対イラク交易の常連だった日本やフランスが撤退していったため、アメリカは原油産出国としてのイラクの市場に参入するチャンスを得たのである。

こうしてアメリカとイラクとは、ひとときの「蜜月」を楽しむこととなった。

 
3章:湾岸戦争

イラン・イラク戦争後の湾岸においては「イラク問題」が浮上した。
このイラク問題には二つの側面があった。
経済問題と軍事問題である。
8年にも及んだ戦争で莫大な負債を抱え込む一方、巨大に膨れ上がった軍事力は中東に置けるパワーバランスを崩壊させていた。
そしてイラクは、この第一の問題を第二の問題で「解決」しようとした。
つまり、圧倒的な軍事力を行使して豊かなクウェートを併合したのだ。
湾岸危機のはじまりである。

湾岸危機発生後かなり早い時期からアメリカが全面的に関与していったことは、それまでの「蜜月」時代を考えると、あまりにも唐突に見える。
このすばやい対応の原因は、イラクの軍事侵攻がクウェートに留まらず、サウジアラビアをはじめ湾岸の弱小産油国全域にいたるのではないか、という懸念であった。
フセインが世界の石油市場を左右する力を得ることは、アメリカを始めとする欧米先進国一般にとって、看過できない深刻な事態だと認識されたのである。

さらに、ロシアが予想以上に積極的に対米協調姿勢をとったことで、アメリカの迅速な動きが可能となったことは、言うまでもない。
以降アメリカは、基本的には国連決議という「国際的合意」に基づいてイラクに圧力をかけていくわけだが、ソ連かアメリカか、どちらかが常に拒否権を行使して決議採択にいたらなかったことの多い冷戦期には、これは考えられない手法であった。

このような背景からブッシュ(父)米政権は、湾岸危機直前までフセインの行動がクウェート侵攻にまではいたらないだろうとみていた自らの甘い読みを猛省するかのごとく、以降断固たる態度でイラクの侵攻を糾弾していくのである。

完全な孤立状態に陥ったフセインは、起死回生の策を打ち出す。
アメリカがイラクにクウェートからの撤退を求めるならば、イスラエルのパレスチナ占領地からの撤退をも求めるべきだという「リンケージ論」である。
これはパレスチナ人の間で大きな反響を呼んだ。
世界がパレスチナ問題を忘れたかのように振舞っているときに、フセインがイスラエルの占領の継続という事実に再び焦点を当てたからである。

しかし結局、湾岸とパレスチナを結び付けようとしたフセインのリンケージ戦略は断ち切られ、湾岸戦争は湾岸戦争のままであり、アラブ・イスラエル戦争にはいたらなかった。
イラクはクウェートからの撤退を余儀なくされ、戦争は多国籍軍の圧倒的勝利によって「湾岸戦争」として終結した。

その後アメリカは、なぜ多国籍軍はイラク本土まで進軍しなかったのか、という点を、常に自問することになる。
なぜアメリカは、イラク国内まで兵を進めてフセイン政権を倒さなかったのだろうか。

クウェートからイラク軍を撤退させるための湾岸戦争、という位置付けで戦争を開始した以上、目的を達成してもなおイラク本土へ進軍を続ける正当な理由が無かったというのが一般的な見方である。
しかしその一方で、戦後フセイン政権はどのみち自壊するだろうという楽観論があったことも否定できない。
また、「フセイン後」について明確な青写真をブッシュ政権が持っておらず、イラクが崩壊した場合にイランがこの地域で勢力を拡大する恐れがあったことも、大きな要因だったと考えられる。

こうしたことから、アメリカをはじめとする戦勝国は、フセイン政権の維持存続を黙認するしか選択肢がなかった。
いや、さらに言えば、アメリカは弱体化させたイラクにまだまだ利用価値を見ていたからこそ、フセイン政権をあえて残したのだ、と解釈することも可能である。

いずれにせよ、フセイン政権は湾岸戦争を生き延びた。
戦後、繰り返し危機を経験するフセインであるが、この湾岸戦争を乗り切ったということ自体が、以降フセイン政権の「自信」となっていく。
逆に、フセインを見逃したということが、アメリカの歴代政権を悩ませていくことになるのである。

 
4章:武器査察問題

湾岸戦争後アメリカが最も危惧したのは、イラクがどれだけの化学兵器や核兵器などの大量破壊兵器を手元に残しているのか、また今後開発できる能力を持っているのか、という点であった。
湾岸戦争後のイラクとアメリカの武力衝突は、「武器査察」をめぐって展開されることになる。

イラクに対する武器査察は、96年以降本格化する。
その理由は、95年に亡命したフセイン大統領の娘婿、フセイン・カーミルがもたらした軍事情報にあった。
元軍事産業相を務めたフセイン・カーミルは、イラク政府がいかに国連の査察をかいくぐって実際に大量破壊兵器を隠し持っているかを、国際社会に向けて赤裸々に暴露したのである。
(なお、フセイン・カーミルはその後「許されて」帰国したイラクにおいて謀殺された)

こうして、武器査察はより本格的なものになっていったが、それに対してイラクは断固として拒否姿勢を貫いた。
強まる査察要求に対してイラクが拒否姿勢を緩めなかったのは、ロシア、フランス、中国といった親イラク的立場を取ってきた国々の、国連安保理での外交的仲介があったからである。

湾岸戦争後、経済制裁下のイラク政府に唯一認められている自由は、輸出相手企業の選別であった。
イラクは、どの国に石油を売るかを選択的に行うことで、イラクに対する政治的支持を、特に国連安保理常任理事国から得ようとした。
そこで選ばれたのが、ロシア、フランス、中国であった。
これら三国を味方につけたイラクは、経済制裁の非人道性を強調して米英を「悪者」にし、問題解決の主導権をアメリカから親イラク諸国に移行させていったのである。

ところで、イラクがなぜ査察を嫌うのか、その大きな理由は二つある。
一つは、兵器関連物資が保管されているかどうかに関わらず、全国各地に相当数建設されている「宮殿」はフセインの隠れ家であり、暗殺や謀略を避けるためには内部情報を漏らすわけにはいかなかったことである。

そしてもう一つイラクが問題にしたのは、査察団のメンバー構成である。
メンバーの多くが米英出身の諜報関係者であり、彼らは、査察で得た情報を本国の対イラク工作に利用していた。
イラク政府は査察団を「アメリカのスパイ」と非難しているが、それは事実であった。

そんな中、クリントン政権は98年12月、査察団がバアス党本部への査察を拒否されたのを見て、待ち構えていたように空爆を実行する。
いわゆる「砂漠の狐」作戦である。しかし、この作戦は結局は中途半端に終わり、クリントン大統領のセックス・スキャンダル隠しの空爆と揶揄されることとなる。

国連決議を重視していたアメリカにとって、まさに打つ手なしの状態が以降しばらく続くこととなったのである。

 
5章:そして戦争へ

2001年、ブッシュ(息子)を大統領として政権についた共和党は、同年2月、イギリスとともに再びイラク空爆を実施した。
しかし、「イラクへの鉄槌」を声高に叫ぶブッシュ新政権に対して、国際社会の反応は冷たかった。
2001年2月の空爆には、いつも真っ先に支持を表明する日本ですら、支持を控えたほどであった。
こうしてアメリカは、国際的支持が得られず、なおイラクに対して有効な方策をとることができずにいた。

そんな中、アメリカの対イラク政策の行き詰まりに新たな局面を開いたのは、9月11日の同時多発テロ事件の発生であった。
テロの背後にフセイン政権が存在するのではないかという疑いをもとに、「対テロ」の矛先をイラクに向けたのである。
さらに、アフガニスタンにおいて軍事力による政権転覆に成功したアメリカは、イラクにも同様のパターンが適用できるのではないか、との期待を高めることになる。

そして2003年1月、ブッシュ大統領はイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで批判するにいたり、ここにアメリカとイラクは再び、湾岸戦争以来の軍事的衝突へと突き進んでいくことになったのである。

 
終章:二極対立の構造

湾岸戦争から十余年の後、アメリカは改めてイラクのフセイン政権の存在自体を問うて「正義の戦い」に乗り出した。
湾岸戦争以来、繰り返し問われ続けてきた「アメリカにつくか、イランにつくか」という二極対立図式の選択肢が、再び世界に突きつけられたのである。

もとはといえば、中東の奇妙な関係は、冷戦時の米ソ二極対立構造によって生まれたものであった。
そして、その二極対立構造をうまく利用して生き延びていくという方法は、まさにフセイン自身が体現してきたことであった。

「大きな二極対立」のなかに「小さな対立」を組み込み、反映させることで、「小さな対立」を戦うものたちは、その勝利を獲得していく。
あるいは「小さな対立」に「大きな二極対立」図式を覆いかぶせることで、全ての対立構造を二つの極が支配しているかのような錯覚を与える。

これまで、アメリカが行ってきたこととイラクが行ってきたこととは、同じ「二極対立」構図をそのまま鏡に映したものに過ぎなかった。
そして2003年3月現在、イラク反体制派や周辺諸国が置かれている環境もまた、「フセイン対アメリカ」という二極対立構造なのである。

結局、中東における本質的な問題は、こうした二極対立構造にあるといえる。
アメリカは武力によって強制的にこの二極対立構造を崩そうとしているが、現在中東諸国は二極対立構造の中でしか生きる術を持ち得ないため、フセイン後、新たな「フセイン的なもの」が再び生まれることは想像に難くない。
根本的な問題解決を望むのであれば、常に大きな二つの「力」が対立しあう中でしか自己を表現していく方法がなかった中東諸国が、今後その環境からいかに抜け出すことができるかを考えることが重要なのである。

すなわち、「アメリカとイラク」問題は、常にこの二極対立構造を通して見つめていく必要があるのであり、最終的にはその二極対立構造を乗り越えることこそが、21世紀の世界に突きつけられた最大の課題であるといえるのである。

イラクとアメリカアメリカのイラク戦略―中東情勢とクルド問題

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.




CAPTCHA