フルトヴェングラーの名盤をどう聴くべきか

「フルトヴェングラーのレコードは、フルトヴェングラーの影すら留めていない」(チェリビダッケ)

フルトヴェングラー自身がレコーディングに全く興味がなかったことは、カラヤンが音楽媒体に異常なほど興味を示したことと同じぐらい有名です。

「レコードの誕生により、歪められた音楽、精神を喪失した、ただうわべだけを繕う単純なきれい事が、止めどもなくはびこることになった」(フルトヴェングラー)

フルトヴェングラーの「名盤」を通して、はたして我々は何を聴いているのでしょうか?

「テンポも、音色も、楽器間のバランスも、聴き手の反応を含めたホールのコンディションと演奏者のその日の気分によって変わる」(フルトヴェングラー)

フルトヴェングラーは常に、その場における音の響き方を感じながら音楽をコントロールしていたと言われます。

ところが当時のスタジオ録音においては、技術水準の低い再生機器から「どのように聞こえるか」によって、テンポも音色も楽器間のバランスも変える必要がありました。

「これは私のテンポではない」(チェリビダッケ)

再生機器の性能が向上した現在、フルトヴェングラーのスタジオ録音盤を聴くことに、どれほどの意味があるというのでしょう?

「リズムが歪み、フレーズが伸縮し、テンポが揺れる」(フルトヴェングラーを生で聴いた人々)

一方、フルトヴェングラーのライブ録音からは、彼の音楽に対する哲学の一部が垣間見れるかもしれません。

ですが、もちろんライブ録音はスタジオ録音の場合よりもさらに劣悪な録音状態にあり、そのような録音がフルトヴェングラーの音楽を完全に収録しているとは到底思えません。

こんな音楽を聴いて何が分かると言えるのでしょう?

「人類の音楽は、フルトヴェングラーの戦時中の演奏をもってその頂点とするんじゃないだろうか」(丸山眞男)

しかしそれでもなお、我々はフルトヴェングラーの録音を聴き続けるしかありません。

たとえフルトヴェングラーの全てを伝えていなくとも、残されたその録音は、後世のどのような指揮者によるどのような生演奏よりも「すぐれた音楽」である、ということだけが歴然たる事実だからです。

ラトルの表層的な音楽解釈、ゲルギエフの野蛮な響き、アーノンクールの奇を衒っただけの演奏。
ブランド化したウィーンフィル、精神性を失ったベルリンフィル、猿真似になり下がった古楽器集団。

もはや現在のクラシック界には、フルトヴェングラーと比較できる対象すらいないのでしょうか。

我々は一体いつまでフルトヴェングラーの戦時中の録音を聴き続けなければならないのでしょうか・・・

「でも、あんな悲劇的な状況と、悲惨な経験を抜きに最高の演奏が生まれないとしたら、<音楽>とはいったい何なんでしょう」(中野雄)

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