汲めども尽きぬ。文学史上最高峰とまでいわれるロシア古典文学の代表作。おそらくまだ全体の魅力のうちのほんの一部しか消化し切れていませんが、ひとまず自分の中で一段落したので読書日記に残しておきます。
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以前、古典が古典たり得るのは時代を経て様々な読み方や解釈を内包していくからだ、という文章を読んだことがあります。これは逆に言うと、多用な解釈を受け入れ切れない作品は古典にはなり得ない、ということです。この観点から見た場合、「カラマーゾフの兄弟」ほど古典に”向いている”作品はなかなかないでしょう。完璧な構築物として壮大な物語が紡ぎ出されている一方、書かれるはずだった「第二の小説」が著者の死によって書かれないままになっている。これほど読者の想像力(妄想力)をくすぐる作品も珍しいです。
シューベルトの「未完成」とかのレベルじゃないんですよね。ベートーヴェンの「第九」を聴いた後に「これは実は第一部で、残り半分の第二部の方がメインなんです」と言われたようなもの。ああ、なんてこと。
ということで、読み終わった後も、エピローグの巻に載っている翻訳者による「解題」を頼りにさっそく読み返しました。「第二の小説」を思い浮かべながら読み返すと、これがまた全然違った印象を呼び起こします。一粒で何度でも美味しい。これ一冊(ってか5冊だけど)あれば無人島でも生きていける(かもしれない)。
もはやどこまでがドストエフスキーの思惑通りなのかわからなくなるほど、様々な読み方をなされてきた作品ですが、未だに新しい読み方や妄想を受け入れ続けているのには脱帽です。特に911テロ以降、テロル文学としての「カラマーゾフの兄弟」が注目されたりもしてますし。どんだけ懐広いんですかね。ホント恐れ入ります。
こういう古典文学は、やっぱり読んでおくべきだと改めて思い知らされました。読まずに一生を送るなんて絶対人生損してる。
みなさんにも、さっそく明日から読み始めてくださいとは言いませんが、ぜひ今年2008年のどこかで時間を作って、いろんなことを妄想しながらたっぷり味わっていただきたいと思います。特にこの光文社から出た新訳は読みやすい翻訳が心がけられているので、ロシア文学が苦手な人にも読みやすくなっています。この機会に人類の財産のひとつに触れてみてください。人生の喜びが、またひとつ増すと思います。
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浮遊図書館(別館)
一年ほど前に長い時間かけて読みました。
ドストエフスキーは好きな作家でしたが、この作品はなかなか
読めずにいました。
この作品を読んで、一番心を動かされたのは長老のセリフです。
「自分に嘘をついてはいけない・・・」
あたりまえのことなのに、痛かったです。
こんなに自分自身に問いかけるように読んだ小説はなかったように思います。
この作品との出会いは、忘れられないものになると思います。
コメントが感想文になってしまいました・・ごめんなさい。
>こころんさん
感想文も嬉しいです♪
僕も長老の過去の話や、イワンとアリョーシャの神議論の部分を読んだときは、考えさせられることが多くて、自問自答を繰り返しながらの読書でした。
こうやって、普遍的な問いかけをたくさん読者に与えてくれるところも、この作品が古典たるゆえんなのでしょうね。
一生のうちに何度か読み返してみたい作品の一つです。
私は結構前に、カラ兄を読み終わりました(旧訳で)。ドストエフスキーは、この作品を読んで知りました。いままでよんだ作品とは、くらべものにならぬほどの内容だったのでしょっちゅう頭が痛くなりましたが、物語にどんどんひきこまれていって予想以上に早く読み終わりました。読み終わったときは、「もう、終わってしまったんだ」と思って、なんだか寂しくなりました。いまも、たまに読み返しています。
亀山氏が、”続編を想像する”という本を書いたらしいので、読みたいと思っています。
>ろーさんさん
コメントありがとうございます!
僕はこの翻訳以外では読んだことが無いのですが、複数の訳で読み比べてみる、というのも通っぽくて楽しいかもしれませんね♪
でもやっぱり、なんと言っても「続編を(想像|創造)する」のが最高の楽しみ方でしょう。
ちなみに亀山さんの本、読みましたよ!
http://sasakitakanori.com/archives/811